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【五山制度とは】なぜ大徳寺は五山制度を抜けたのか【臨済宗】

こんにちは。本宮 貴大です。
今回は「【五山制度とは】なぜ大徳寺は五山制度を抜けたのか【臨済宗】」というテーマでお伝えしたいと思います。

今回は、五山制度とは何かについて見ていきながら、なぜ大徳寺は、五山制度を脱退したのか、について解説していきたいと思います。

室町幕府鎌倉幕府と同じく、臨済宗を尊重しました。臨済宗の寺院は、幕府の保護を受けて、五山・十殺の制によって組織化されました。五山十刹の制とは、中国にならった臨済宗の寺院の格のことで、京都の南禅寺を最上位に、京都五山鎌倉五山が定められました。

鎌倉時代に日本に伝えられた禅宗は、室町時代には幕府の保護を受け、宗教にとどまらず、広く社会や文化、くらしに影響を与えました。禅宗の文化は建築や庭園、絵画や書・文芸、茶や料理など多方面にわたり、室町文化を支える土台となりました。この禅宗の文化の中心となったのは、五山派とよばれた臨済宗の大寺院とそこで活躍した僧たちでした。
五山とは、禅宗寺院の寺格(寺の格式)や順位を定めた制度で、中国の南宋時代にはじまったものです。五山に次ぐ寺格とされる10の寺院(十刹)を合わせて五山十刹の制といいます。
日本では、鎌倉幕府が最初に五山十刹の制をとり入れました。鎌倉幕府は、1310年頃に浄智寺建長寺円覚寺寿福寺鎌倉五山として認定し、その後、京都の南禅寺建仁寺東福寺も含まれるようになりました。

しかし、この制度が広く認知され始めるのは室町時代になってからのことで、後醍醐天皇は1334(建武元)年に京都を中心として南禅寺大徳寺東福寺建仁寺建長寺円覚寺を五山として定めました。特に大徳寺は、京都でも有数の禅宗寺院であり、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が14世紀前半に紫野に小堂を建てたことに始まるとされています。宗峰妙超は、花園天皇の帰依を受けた臨済宗の僧侶で、大徳寺は1325年には花園天皇の祈願所となりました。
そんな天皇家と関係の深い大徳寺後醍醐天皇も重視し、建武元年の定めでは、南禅寺とともに五山の筆頭寺院としました。

しかし、これが裏目に出る結果となりました。
足利尊氏室町幕府を開くと、敵対勢力(南朝勢力)となった後醍醐天皇に親しいという理由から大徳寺は五山から外される結果となりました。
尊氏は、1342年に鎌倉(武家派)と京都(公家派)の対立緩和のために、下記のように鎌倉と京都のそれぞれに五山寺院を定めました。

鎌倉 京都
一位 建長寺 南禅寺
二位 円覚寺 天龍寺
三位 寿福寺
四位 建仁寺
五位 東福寺
準五位 浄智寺

その後、足利義満は1386年に鎌倉(武家派)と京都(公家派)が対等となるために下記のように鎌倉五山京都五山を改めました。なお、京都の南禅寺は最上位として五山之上に置かれました。

鎌倉 京都
五山之上 南禅寺
一位 建長寺 南禅寺
二位 円覚寺 天龍寺
三位 寿福寺 建仁寺
四位 浄智寺 東福寺
五位 浄妙寺 万寿寺

その後、大徳寺は、足利義満の時代に五山制度に復帰するも十方住持(住職を広く募集する)を求められたため、それを受け入れることが出来ず、五山制度を抜けました。禅宗では五山制度に入らない曹洞宗や、臨済宗でも妙心寺大徳寺などは林下寺院と呼ばれ、幕府の保護を受けた五山寺院に対し、より自由な活動で民間布教につとめました。

一方、経営難に陥った大徳寺は、1386年に足利義満が定めた五山十刹の第九位という屈辱的な地位で五山制度に復帰しました。しかし、そんな大徳寺に、十方住持(じっぽうじゅうじ)が求められました。
十方住持とは、住職となる僧をその寺の出身者に限らず、広く募集するということです。しかし、宗峰妙超の法燈を大事にしてきた大徳寺にとって、そうした住職を公募するようなことは大変受け入れ難いものでした。したがって、大徳寺は、今度は自ら五山制度を脱退しました。

五山制度に入らない寺院のことを林下と呼びます。林下寺院は、幕府の援助が受けられないため、経営に苦しみましたが、より自由な活動で民間布教につとめる禅宗の一派として五山派に対抗しました。
戦国時代に入ると、林家寺院に帰依した在地領主の勢力が下剋上によって伸びるとそれとともに発展しました。
林下寺院として大徳寺は、1467年に応仁の乱で大きな被害を受けるも、一休宗純の尽力によって再興されました。その復興を、京都や堺(大阪府堺市)などの商人たちが支えました。その後、戦国時代には、千利休ら茶人が参禅し、江戸時代には幕府の統制のもと発展していきました。

では、最後に五山寺院と林下寺院のそれぞれで活躍した僧たちを軽くご紹介してから終わりにしたいともいます。
まず、五山寺院の僧たちですが、足利尊氏の保護を受けて京都の天龍寺を建てた無窓疎石とその弟子たちが挙げられます。
無窓疎石は、足利尊氏の保護を受けた僧侶で、禅宗室町幕府がつながるきっかけとなりました。尊氏は疎石の勧めで後醍醐天皇の菩薩を弔うために天龍寺を建立し、その造営費を得るために天龍寺院船という貿易船を元(中国)に派遣しています。
また、無窓疎石の甥の春屋妙葩は、足利義満の外交顧問(相談役)となって外交政策に乗り出しました。明(中国)や朝鮮などと外交していくためには、外交文書の政策などがあり、漢文や漢詩の知識を持つ禅僧の助けが必要だったのです。
無窓疎石の弟子の義堂周信(ぎどうしゅうしん)、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)らは、すぐれた漢詩をつくりました。このような五山の僧らの漢詩文学を五山文学といいます。

林下寺院では、大徳寺の住職となった一休宗純が挙げられます。一休は、名声をのぞむことなく各地を歩いて庶民と親しく接し、五山派の僧が権力に取り入り、堕落していると手厳しく批判しました。また、その風変わりな恰好や行動が、人々を驚かせ、茶人の村田珠光や能役者の金春禅竹連歌師の宗長などに影響をあたえました。
こうした彼の社会風刺や批判精神に満ちた生き様が庶民に受け、江戸時代以降、一休をモデルとした頓知エピソードが創作されるようになったそうです。

つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
図解 眠れなくなるほど面白い 仏教  渋谷のぶひろ=著 日本文芸社
日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社