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【下剋上とは?】なぜ日本は戦国時代に突入したのか

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【下剋上とは?】なぜ日本は戦国時代に突入したのか」というテーマでお伝えしたいと思います。

 戦国時代とは、どんな時代だったのでしょうか。それを説明出来るひとつの現象が下剋上でしょう。

 下剋上の「剋」の字は、訓では「かつ」と読み、返り点をふると、「下、上に剋つ」と読みます。かつて古代律令体制の社会では、官位によって人間の上下が定められ、下の階層が上の階層の者を打倒することは、許されざることでした。

 という今回は、そんな下剋上の時代について触れていきながら、なぜ日本は戦国時代に突入してしまったのかについて解説していきたいと思います。

当時の武田信玄織田信長も、今が戦国の世であることを知っていました。家柄や身分のせいで立身出世を阻まれてきた実力者たちのフラストレーションが一気に爆発し、誰でも国を盗れる実力主義社会、すなわち戦国時代が到来したのです。

 甲斐の武田信玄が制定した『甲州法度』のなかに、「現在は『戦国』の世の中だから、武備を怠ってはならない」という条目があります。

 しかし、平安時代鎌倉時代、江戸時代といった現在の我々が接している時代区分は、明治以降に編み出された時代区分であって、鎌倉時代に生きた人達が「現在は鎌倉時代だから○○しないと」などとは意識するはずもありませんでした。

 しかし、戦国時代だけは、『甲州法度』からもわかるように、「戦国時代」という直接的な用例はなくても、「戦国の世」「戦国の乱世」という言葉が使用されています。つまり、戦国大名たちは、自分達の生きている世界が「戦国状態」であることを悟っていたのです。

 戦国時代というと、100年以上も争乱が続いたことから、殺伐とした世相となり、一般大衆は悲惨な生活を送ったというイメージが強いです。しかし、争乱が続けば、実力優先の社会となり、農民出身である豊臣秀吉が天下人にもなれる社会環境が生まれました。逆に考えると、実力があっても権威のない人間は、成り上がることが難しかったです。

 それが応仁の乱がきっかけとなって、室町幕府の権威が凋落するとともに、実力があっても権威のない人々のフラストレーションが一気に爆発して、実力本位の時代、すなわち戦国時代が到来したのです。

 

 下剋上という言葉自体は、13世紀の鎌倉時代にすでに生まれていました。それが14世紀半ばの南北朝時代には定着しました。南北朝時代とは、天皇が2人いるという非常に不安定な時代でしたが、そんな気風から権威に対する挑戦としてバサラという風潮が流行ったりしました。やはり動乱の時代には、下剋上現象、つまり実力のある下級の者が上級者の立場を脅かす風潮が強まるようです。しかし、南北朝時代は形式的には南朝北朝という2つの中央政権による争いなので、群雄割拠の時代ではなかったことから、戦国時代とはいえない。

 そんな下剋上現象が決定的となったのが、応仁の乱以後のことでした。もともと室町幕府は日本国内をゆるやかに支配していましたが、応仁の乱とともに、遂にその統治権を失い、群雄が割拠する混沌とした状態が生まれ、戦国時代へと突入しました。

 戦国時代は、実力のない権威は否定されました。それまで、天皇を中心とする公家や宗教勢力は、実体のない「権威」によって荘園と呼ばれる土地を維持していました。ところが、下剋上の風潮が強まると、彼らの荘園は、実力のある武家によって横領され、彼らの永克基盤を脅かしたのです。下剋上という言葉には、落ちぶれていく公家や宗教勢力の怨恨が込められています。

 

 戦国時代とは、政治は乱れていましたが、経済は大きく成長しました。基本的には戦争や内紛が起こると、経済は右肩上がりに成長し、好景気となります。一方で豊かで平和な世の中であれば、経済は停滞し、不景気となります。それは昔も現代も変わらないようです。人間は命の危険に晒されると、思考をめぐらせ、積極的に行動するようになるのです。

 国の経済は、生産・流通・消費の活動を繰り返しながら循環し、成長していきますが、農村では農業技術も改良され、生産力はアップ、都市部を中心に貨幣経済が浸透したことで、商業・流通・金融が発展していきました。

 そうした経済力を背景に農民たちは一致団結して自衛組織(惣村)をつくり、領主や地頭からの不当な搾取に抵抗しました。それはやがて自治組織へと発展していき、1485年には南山城の南部では、1485年に地侍(国衆)たちが守護の畠山氏の支配を嫌って蜂起、その結果、南山城から畠山氏の影響力は排除され、「山城国一揆」という自治的組織が8年間にわたって南山城を統治しました。それまでの秩序のなかで最下層にランクされていた地侍や農民たちは、一揆という横型の結束により、権威によりかかった支配者を排除することに成功したのです。下剋上を象徴する出来事(事件)といえるでしょう。

 もちろん、戦国乱世の時代には、武将たちの下剋上も起こりました。1491年には北条早雲堀越公方を攻め滅ぼし、1565年には松永久秀らが室町13代将軍・足利義輝を殺害し、1582年には明智光秀が主君の織田信長を攻め滅ぼしました。

 そして、最終的には豊臣秀吉が天下統一という偉業を達成します。農民出身の豊臣秀吉が天下をとったことは、下剋上の時代の象徴ともいえますが、天下人にとって下剋上は好ましい現象ではなかったので、秀吉は関白に就任し、下剋上の動きを封殺しようとしています。

 成り上がりの秀吉により、下剋上は下火になり、徳川家康が政権を奪取すると1615年に『武家諸法度』を制定し、法治主義による支配体制が出来上がりました。天下泰平の時代の到来とともに、下剋上の時代に終止符がうたれることとなったのです。