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【日朝貿易】室町時代の日本と朝鮮の関係とは?

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【日朝貿易】室町時代の日本と朝鮮の関係とは?」というテーマでお伝えします。 

1392年、朝鮮半島では、高麗政府の武臣であった李成桂が高麗王にかわって新たな国家として朝鮮を建国しました。同年、日本でも室町3代将軍・足利義満南北朝の合一の成功し、極めて大きな権力を獲得しました。

 14世紀半ば、日本では、鎌倉幕府が滅び去り、室町幕府が成立するという大きな変化がありました。一方、朝鮮半島でも14世紀からその情勢が大きくかわりました。

 長いあいだ元に服属していた朝鮮半島の高麗では、元の王室から王妃をむかえ、その子を王としていましたが、明が建国されると、国の政策をめぐって意見の対立が起こりました。中国を追われた元が引き続きモンゴル高原に宮廷を置いておいた北元にしたがうべきか、新しく建国された明に従うべきかで意見が対立したのです。高麗政府の指導者たちは、反対派を抑え、北元にしたがって明と戦うことにしました。

 そこで、1388年、高麗政府の武臣の李成佳(イソンゲ)は、大軍を率いて明との戦いに進みました。しかし、その遠征の途中で、李成佳(イソンゲ)は、軍を引き返して都・開城(ケソン)に攻め入り、親元派の指導者たちを追い出すというクーデターに出ました。

 これによって1392年、高麗王に代わって国王の位についた李成佳は、新王朝をたてて国号を朝鮮と定め、都を漢陽(ハンソン、現在のソウル)に置きました。この1392年は、日本で室町幕府3代将軍・足利義満南北朝の合一が実現した年です。これによって義満は公家と武家の頂点に立ち、朝鮮や明などの諸外国との外交及び貿易に乗り出していきます。

朝鮮半島では、高麗政府のときから倭寇の海賊行為に悩まされていました。1392年に建国された朝鮮は、日本に倭寇禁圧を求めて日朝貿易を形成しました。しかし、その貿易は日明貿易のような幕府の独占ではなく、西国の守護大名や、対馬の島主の宗氏なども貿易に従事するカタチとなりました。

 こうした動きがあった一方で、朝鮮半島の沿岸には倭寇とよばれる海賊集団があらしまわっていました。

 室町時代の日朝関係を語るうえでどうしても外せないのが、この倭寇の問題です。朝鮮半島倭寇の被害が増えだしたのは、1350年頃でした。彼らはたびたび海から人家に乱入しては米穀を奪い、男女の別なく住民を連れ去りました。連れ去られた人たちは、奴隷として酷使され、あるいは高値で売り払われるのです。

 はじめは20隻くらいだった船団が400隻といわれる大規模なものとなり、税として徴収した米を蓄えておく倉庫などを狙って沿岸部ばかりではなく、内陸部にまで押し寄せました。

 たまりかねた高麗政府は、1367年に室町幕府に使者を送り、倭寇を取り締まってもらうよう求めました。しかし、この頃の日本は南北朝の動乱が収まっておらず、幕府は高麗の要求に応えることができませんでした。

 そこで高麗政府は、倭寇に強い影響力をもつ九州探題今川了俊や、周防国山口県東部)の大内義弘対馬国長崎県対馬)の宗氏など西国の大名らに協力を求めました。その結果、倭寇に対抗できる機動力と軍事力が整えられ、日朝両国で倭寇の討伐が行われました。

 この倭寇との戦いで功績をあげていたのが李成桂(イソンゲ)でした。彼は、この功績から民衆から高い信頼を得ていたため、1392年、朝鮮の国王に就くことが出来たのです。

 こうして、1404年、朝鮮と幕府(日本)は正式に国交を結びました。しかし、朝鮮側は倭寇の取り締まりを幕府だけでなく、西国の守護大名や武士達を通じても倭寇を抑えようとしていたので、日朝貿易は、日明貿易のような幕府の独占とはならず、大内氏・大友氏・宗氏などの守護大名や、対馬壱岐肥前松浦地方(長崎県)の武士、商人、僧など、いろいろな人々が貿易に参加しました。

 このような努力の結果、朝鮮半島を荒らしまわる倭寇は撃滅されていきました。朝鮮側は、倭寇を武力によって鎮圧するだけでなく、懐柔政策も始めました。具体的には、貧しい倭寇に対し、投降を呼びかけ、これに応じた者には十分な食料と衣類を与えました。さらには官職を与え、住居までも与えた例もありました。

 その結果、多くの倭寇が朝鮮政府に投降し、それでも海賊行為を辞めなかった一部の反攻者は、武力制圧されました。1419年には、倭寇の根拠地の一部であった対馬朝鮮軍が襲う事件(応永の外寇)なども起こりました。こうして朝鮮半島での倭寇は、15世紀までにはほとんど消滅していきました。

 一方、この日朝貿易は極めて限定的なもので、朝鮮側は富山浦(ふざんぽ)・乃而浦(ないじほ)・塩浦(えんぽ)の三浦(3つの港)のみが開かれ、ここに日本側の商人などが居住して日朝貿易が進められました。やがて、15世紀頃から日本側からの貿易拡大の要求が高まりますが、朝鮮側はなるべく制限しようとしました。このため、16世紀はじめ、三浦の日本側の商人や武士達が朝鮮側の貿易統制強化に反発した反乱(三浦の乱)が起こりました。

 日朝貿易では、日本から朝鮮へは、銅・硫黄のほか、琉球沖縄県)との貿易を通じて香料・染料など南方の特産物が輸出されました。朝鮮から日本へは、室町将軍をはじめ各地の武士たちの求めに応じて、高麗版の大蔵経(仏教の経典をすべて集めたもの)が多数もたらされました。さらに、朝鮮人参や、まだ日本では生産していなかった木綿も大量に輸入され、日本人の衣生活に大きな変化をもたらしました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。