日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【勘合貿易】なぜ勘合が必要だったのか?どんな仕組みだったのか?【足利義満】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【勘合貿易】なぜ勘合が必要だったのか?どんな仕組みだったのか?【足利義満】」というテーマでお伝えします。 

14世紀ころ、東シナ海沿岸から朝鮮半島にかけて、倭寇という海賊集団が恐れられていました。1368年、中国では朱元璋光武帝)により明が建国されました。日本では足利義満が3代将軍に就任した年です。明は、日本に朝貢倭寇の取り締まりを要求しました。義満はこれに応えて、1401年に明に朝貢の使いを派遣し、国交が樹立されました。

 13世紀後半の蒙古襲来によって、決別した日元関係は、それ以後も正式国交が開かれないままでしたが、民間による私貿易は、蒙古襲来後、かえってさかんに行われるようになりました。鎌倉幕府はそんな貿易の利益に着眼し、1325年に建長寺船を派遣して、寺院建立の費用に充てたりした。1341年には後醍醐天皇の冥福を祈るために、無窓礎石のすすめで足利尊氏が建立した天龍寺の造営費用を得るために天龍寺船も派遣されました。

 14世紀に入ると、日本は商品流通が発達したことにより、貨幣が不足しました。そのため、元から貨幣を輸入するために、日本の北九州の武士や漁民が中心となって私貿易は朝鮮半島や中国大陸の沿岸部に進出していきました。彼らのなかには、貿易が思うように進まない、または食料不足に陥ると、武力を使って海賊行為を行って、人家に乱入しては米穀を奪い、男女の別なく住民を連れ去りました。連れ去られた人たちは、奴隷として酷使され、あるいは高値で売り払われるのです。

 朝鮮半島や中国の沿岸部の人々は、そんな海賊集団のことを倭寇と呼んで恐れ、なかには400~500もの船を従え、1000を超える兵士を集めた強大な集団もありました。

 高麗(後の朝鮮)と明国(中国大陸)の政府は、軍を派遣して倭寇の討伐を試みるも、機動力のある奴らは、いつどこに現れるのかを予測しにくく、その鎮圧はスムーズにはいきませんでした。そのうち、被害は沿岸部ばかりでなく内陸部にまで拡大し、税として徴収した米を蓄えておく倉庫までもが狙われました。

 その頃、日本では義満が国内をまとめあげ、公家と武家の頂点に立ち、残された課題は外交だけとなりました。13世紀後半の元の襲来以後、日本では鎌倉幕府が滅び、室町幕府が成立するという大きな変化がありました。

 そんななか、中国大陸の情勢も14世紀の後半に大きくかわりました。元の支配に対して各地で農民たちの反乱が起こったのです。反乱軍の指導者となった朱元璋(しゅげんしょう)は、1368年、南京で皇帝の位について光武帝と名乗り、漢民族の新しい王朝、明を打ち立てたモンゴル人を万里の長城の北に追い払いました。この年、日本では義満が室町幕府3代将軍に就きました。

 朝鮮と同じように倭寇の被害に悩まされていた中国では、明を建国した洪武帝が日本に使者を送って即位を告げるとともに、朝貢を呼びかけました。これは、冊封とよばれる中国の伝統的な外交関係を日本と結ぼうとしたものでした。正式な外交関係を結ぶことによって渡航証明書を持つ遣明船と倭寇との区別をはっきりさせ、彼らの活動を抑え込もうとしたのです。

 冊封というのは、周辺諸国の君主が中国の皇帝に臣下の礼をとり、死者を送って貢物を差し出す(朝貢する)かわりに、皇帝からその国の王として認めてもらい、返礼の品が与えられるという不平等な関係でした。

 光武帝は、翌1369年、九州にあった征西将軍・懐良親王(かねよししんのう)に倭寇の取り締まりを求めてきました。しかし、懐良親王はこれを拒絶しました。

 一方、幕府では、明と国交を開き、貿易をしたいと願っていた義満が、国交樹立を求めて洪武帝に使者を送りました。しかし、そのころの義満は支配者にふさわしい地位に就いていなかったため、受け入れられませんでした。

 

 その後、義満は、応永の乱大内氏を討ち、北九州への勢力を強化し、支配者としての地位が固まった1401年、改めて明の皇帝に使者を派遣し、国書を送って国交樹立を求めました。明では永楽帝の治世となっており、これを日本からの正式な使節とみとめ、1402年、使者を日本に送って義満を「日本国王」に任命するという詔書(皇帝の言葉を記した文書)を与えました。こうして義満は正式に日本国王に任命され、「日本国王之印」と彫られた金印を与えられました。

明から日本国王冊封された義満は、北京(ぺきん)と寧波(にんぽー)への入港の許可証として勘合を与えられ、1404年に日明貿易勘合貿易)が始まりました。勘合とは、遣明船と私貿易船(倭寇)を区別するための割符(合札)のことです。北京や寧波で、それらが照合出来れば、明への入国が許されました。

 明は義満を「日本国王」に認めたことで、日本を属国とみなし、義満は明皇帝の臣下の礼をとりました。同時に義満は、明から勘合と勘合底簿を賜りました。これによって、1404年から日明間で勘合貿易朝貢貿易のかたちをとって開始されることになりました。

 日本から明に行く船(遣明船)は、明の皇帝から日本国王に与えられた勘合とよばれる渡航証明書を持たなければなりませんでした。そのため、日本と明との貿易を勘合貿易と呼ばれているのです。

 勘合とは割符(合札)のことで、偽造できないように複雑かつ様々な種類がありました。まず、「日本」の2字を分け、「日字壱號(いちごう)」と「本字壱號(いちごう)」という文字にしました。それらは百號(ひゃくごう)まであったそうです。

 この文字をそれぞれ左右に分け、左半分は勘合、右半分は底簿とよばれ、日本は勘合を、明は底簿を持ちました。遣明船は1隻につき1枚の勘合を持って渡航し、明の寧波で底簿と照らし合わせ、左右の文字が合えば、正式な貿易船と認められ、入国が許されました。これによって、遣明船と私貿易船(倭寇)と区別しようとしたのです。

そして、明の皇帝に朝貢の御挨拶にいくのです。

 このような勘合貿易は、朝貢という屈辱的な形式をとるだけに、日本の品は無税で売ることができ、中国の品も無税で購入できるという自由な貿易でした。滞在費も相手持ちだったため、貿易の利益は大きなものとなりました。

 最初の遣明船は、みな幕府の船でしたが、のちに有力守護の山名・大内・細川氏や、京都の相国寺天龍寺などの寺社が船を遣わしました。日本からは硫黄・銅・刀剣・漆器・扇・屏風などが貢物として捧げられ、明からは銅銭・生糸・絹織物・陶磁器・書籍・絵画などが与えられました。