日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【関東の歴史】古来関東人の願いとは?

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【関東の歴史】古来関東人の願いとは?」というお話になります。

関東の歴史は、そのまま武家の歴史であると言える。その証拠に関東の地名にはかつて有力武将だった人達の苗字のものが多い。足利、千葉、宇都宮、鎌倉、三浦などがそれにあたります。

古来、関東地方は中央政権(大和政権)から搾取されるだけの一地方に過ぎませんでした。

そんな関東において935年に起きた平将門の乱は朝廷を震撼させた。これは関東人の不満が爆発した出来事とみてよいでしょう。

平将門とは、桓武天皇の血を引く誉れ高い平氏の武将ですが、この反乱は中央政府に一矢報いた事件でした。もともとは将門の一族内の争いだったものが、成り行きで、将門は新皇を名乗り、関東に模擬政府までつくっている。これに当時の関東人は熱狂しました。

結局、将門の乱は鎮圧されますが、これ以降、関東人は関西(朝廷)からの独立を強く願うようになる。この地域は官位や身分は高くなくても、地元民の活力を基盤に武士が多く土着するようになる。

そして将門の乱から250年後に関東人の願いが現実となりました。

源頼朝が1192年に鎌倉幕府を創設したのです。東国の武士は御家人と呼ばれ、鎌倉将軍と主従関係を結び、新恩給与本領安堵を約束された。そう考えると、源平合戦とは関東地方の半独立戦争だったということも出来るでしょう。

 

1333(元弘3)年、鎌倉幕府の倒した足利尊氏は悩んだ末、幕府を京都(北朝)に開きくことにしました。ここで政治の中心は再び関西に移行してしまった。

しかし、尊氏は幕府の出先機関として鎌倉府という役所が置き、三男・基氏を初代長官(鎌倉公方)とし、補佐には上杉氏を関東執事(後の関東管領)として関東地方の支配にあたらせた。

公方とは将軍を意味するが、京の朝廷や室町幕府は、この地はずっと有力武士たちが治めるところとして警戒しており、事実上の鎌倉幕府を存続させたのです。鎌倉府は関東鉢8か国(武蔵、相模、常陸、上野、下野、上総、下総、安房)に甲斐と伊豆を加えた10か国、後には陸奥奥州探題)・出羽(羽州探題)の2か国も加わり、極めて独立性の強い機関となりました。

 

関東人は、この鎌倉府をかつての鎌倉幕府に見立てて、室町幕府からの独立をはかろうとしました。その証拠に鎌倉公方は代を経るごとに将軍と対立していき、そして、それが頂点に達した事件が起こりました。

第4代鎌倉公方足利持氏は、足利義教がくじ引きで6代将軍に就任したことに強い不満を持ちました。持氏は義教よりも自分の方が将軍にふさわしいと思っていたからです。

 

元来、鎌倉公方の子は、将軍の面前で元服し、その一字をもらい受けるのが習わしでした。しかし、持氏はこれを無視し、嫡子である義久を鎌倉の鶴岡八幡宮元服させてしまいました。さらに、年号が正長から永享に代わっても、正長の年号をそのまま使い、幕府に刃向かう姿勢をはっきりと示しました。

関東管領の上杉憲実は、こうした持氏の行為を諫めるが、逆に持氏は憲実の討伐を計画する。身の危険を感じた憲実は自らの領国である上野国群馬県)に帰ってしまいました。これを待っていたかのように持氏は憲実を攻めようとしました。

こうした持氏の挑発行為に対し、将軍・義教は憲実を救援する名目で関東に大軍を派遣し、関東・東北の武士たちに持氏を攻めるよう命じました。こうして鎌倉府は滅ぼされ、持氏も1439年に自害に追い込まれました。これを永享の乱といいます。

 

この永享の乱後、持氏に味方したために下野国(栃木県)の守護職を奪われた結城氏朝が持氏の子・成氏を担ぎあげて反乱を起こし(結城合戦)、義教はやはり上杉氏に援軍を送ってこれを鎮めました。

しかし、関東の混乱はこれだけでは収まりませんでした。

1454年、持氏の子・成氏は下総国古河(茨城県古河市)に逃れて古河公方を自称するようになりました。一方、室町幕府からも1457年に8代将軍・足利義政が弟の政知を関東に派遣しました。しかし、政知は鎌倉に入れず、伊豆国の堀越(静岡県伊豆の国市)を拠点とし、堀越公方を名乗るようになりました。

こうして関東には2つの公方が並立する状態となりました。それに加えて管領の上杉氏も内部分裂が起こり、扇谷上杉氏と山内上杉氏の2つに分裂したことで、関東は各派が入り乱れる混乱状態となりました。

 

これにつけ入ったのが、後北条氏でした。室町幕府の勢力が衰えてからは、下剋上の風潮に便乗して大名に成り上がる者が出てきました。

駿河国静岡県中部・東部)の今川氏の家臣となっていた伊勢氏長(後の北条早雲)もその一人です。早雲は1493年に、堀越公方を滅ぼした後、伊豆国を奪い、韮山城を本拠に自立し、2代・北条氏綱のときには上杉両家を圧迫して、小田原城を奪い取り、1495年には相模国(神奈川県)、そして武蔵国(東京都)を獲得。そして3代・北条氏康は北関東にも進出し、関東管領山内上杉氏上杉憲政越後国新潟県)に追放。古河公方も婚姻政策によって吸収し、関東の大半を平定するに至りました。

こうして、いち早く戦国時代を迎えた関東では、下剋上によって成り上がった後北条氏によってまとまっていき、関東はますます半ば独立国のようになっていきました。なお、この後北条氏小田原城を本拠としたため、小田原北条氏とも呼びます。

後北条氏は新参者だったため、関東支配に際しては大変気を使いました。苗字を伊勢から北条に改めたのも、かつての鎌倉幕府の北条氏を連想させるためでしたし、武田信玄織田信長のように天下統一を目的としなかったのも、あくまで関東独立を願う関東人の感情に配慮してのことだったのでしょう。だからこそ、後北条氏は以後、5代100年間もの間、覇権を維持し得たのです。

 

しかし、この後北条氏の関東支配にピリオドを打ったのは、1590年に関西から来襲した豊臣秀吉でした。このとき、ほぼ全国の大名を配下に置いていた秀吉は諸大名に命じて支城を攻略、そして小田原城は取り囲まれ、後北条氏は秀吉の武力の前に屈したのでした。

 

この後、関東の地にやってきたのは徳川家康でした。秀吉の命令で慣れ親しんだ領国を奪われ、代わりに当時はまだ荒れ地や閑散とした農村ばかりだった関東の地を与えられたのでした。

家康は、かつて善政をしいていた小田原北条氏を良く慕っていた領民を支配するのに相当苦労したと伝えられています。その後も家康は朝鮮出兵にも参加せず、関東の地を整備していきました。

そして秀吉の死後、関ケ原の戦いを制した家康は、征夷大将軍となり、1603年に江戸に幕府を開きました。以後、江戸は日本の中心地として発展していき、最盛期には人口が100万を超える日本はおろか世界的な大都市となりました。

そんな江戸幕府も1867年の大政奉還によって滅亡し、江戸を火の海にしようとした西郷隆盛を説得したのが勝海舟山岡鉄舟でした。こうして江戸城無血開城となり、都市は戦果を免れました。

 

そのおかげもあって、政治の中心はまたも京に移るかと思いきや、そのまま江戸になりました。一時は大阪に遷都する案が有力でしたが、江戸は東京と改名され、明治天皇行幸し、東京城(皇居)で政務を行うこととなりました。以後、京にあった政府機関も続々と東京に移り、なし崩し的に東京が首都となりました。

 

以上。

今回も、最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。

参考文献

日本の歴史2 鎌倉~安土桃山時代    ポプラ社

早わかり 日本史   河合敦=著    日本実業出版社

読むだけですっきりわかる 日本地理   後藤武士=著  宝島社

教科書よりやさしい 日本史   石川晶康=著  旺文社

【鎌倉仏教】新仏教に対抗した旧仏教

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【鎌倉仏教】新仏教に対抗した旧仏教」というテーマでお伝えしたいと思います。

 鎌倉時代の仏教は大きな改革がもたらされました。平安末期(院政期)、天変地異や飢饉が頻発し、保元の乱平治の乱、源平の争乱、承久の乱などの戦乱も相次ぎ、それに加えて仏教も衰え、修行も悟りも軽視される風潮が起こると、世間には末法思想が広まりました。そんな社会状況を背景に武士や庶民も現世の不安や苦しみから逃れるため、神仏にすがろうとしたのです。

 そんな時勢にあって、積極的に武士や庶民の要求に応え、彼らを救おうと6人の僧侶とその宗派がそれぞれ誕生しました。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗、そして一遍の時宗です。これらの新しい宗派を鎌倉新仏教といいます。

 法然は「南無阿弥陀仏」を唱えて仏の救いを受ける専修念仏を広め、浄土宗を開きました。この教えは瞬く間に広がり、悪人でさえも往生できると説いた親鸞浄土真宗踊念仏で救いを得る一遍の時宗などに派生しました。

 一方、中国で学んだ栄西坐禅によって悟りを開こうとする禅宗を本格的に日本に導入しました。栄西臨済宗質実剛健な武士に支持され、幕府の保護を受けて広まっていきました。一方、道元曹洞宗は地方武士に支持されました。

 そして、法華経を信じ、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えれば、個人はもちろん、国家も救うことが出来ると説いた日蓮日蓮宗を開きました。

 このように日本の仏教は鎌倉時代に新しい宗派が次々と生まれました。これに対抗して腐敗と衰退が著しかった旧仏教(南都六宗)の中からも、復興と改革をはかる動きがありました。その代表として法相宗貞慶華厳宗明恵律宗俊仍(しゅんじょう)叡尊(えいぞん)忍性(にんしょう)の5人が挙げられます。彼らは、厳しい戒律を守ることの重要性を説き、それぞれの宗派を再興し、律宗のように社会事業にも力を入れた宗派もありました。

 先述通り、平安末期(院政期)の旧仏教界は腐敗と衰退が著しく、僧侶たちは戒律を全く守らなくなってしまいました。奈良時代に唐の鑑真が来日して以来、戒律は僧侶が守るべき掟として広まっていきました。しかし、この頃の僧侶たちは、多くの宗派を学ぶ者はいても、戒律を知っている者はおらず、ましてやそれを受けて守っている者もいませんでした。

 こうした戒律や修行を軽視する時代の風潮が、結果として南都焼討ちなどを招いてしまった。これに危機感を感じた僧侶たちがそれぞれの宗派の復興と改革に奔走したのです。

 法然栄西比叡山で修行をしている頃、藤原信西の孫の貞慶は11歳の頃に興福寺で出家し、法相宗の僧侶となりました。貞慶は、新仏教に対抗するために、旧仏教の改革をいち早く提唱した南都仏教復興の第一人者です。貞慶は笠置寺三十塔を建立して寺院を整備し、海住山寺も建立しました。戒律を重んじる貞慶は専修念仏を唱える法然の浄土宗を批判し、停止を求めました。

 貞慶が笠置寺を整備している頃、京都高雄神護寺で出家した明恵密教華厳宗を学びました。その後、明恵後鳥羽上皇から栂尾を下賜され、高山寺を開きました。明恵は禅定を好み、高山寺の裏山に入って木の空洞や岩穴などで一日中修行をしたといいます。明恵は、ただ悟りを得られればよいと考えて戒律や厳しい修行を軽視する時代の風潮を嘆き、貞慶らとともに旧仏教の改革運動を行いました。

 戒律復興や厳しい修行に打ち込んだ明恵は、主著『催邪輪』の中で、法然の専修念仏の教えは、人々の菩薩心(悟りを得ようとする心)を軽視し、極楽往生の条件としていないと批判しました。

 律宗では、18歳で出家した俊仍が、戒律の復興に奔走し、律宗を基本に、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場として泉涌寺を開山し、新仏教に対抗しました。

 17歳頃に醍醐寺で出家した叡尊は、もともとは密教を学ぶ真言宗の僧でした。しかし、戒律を守ることの重要性を悟って、律宗の再興を志し、奈良の西大寺律宗を復活させました。叡尊は最終的に真言宗律宗を統合した真言律宗を興し、病人や貧しい人たちを救うための慈善活動に力を尽くしました。もともと律宗には社会的弱者を文殊菩薩の化身だとする考えがあり、彼らへの供養が功徳に繋がるとして積極的に社会事業を行いました。

 大和の寺で出家した忍性は、東大寺で受戒した後に叡尊に惹かれて弟子入りし、叡尊のもとで再度受戒しました。忍性は、ハンセン病患者の救済施設として北山十八間土を創建し、他にも道路を開き、橋をかけるなどの土木事業も行いました。その後、北条氏の招きで鎌倉に入り、極楽寺を開き、関東に律宗を広めました。忍性は鎌倉幕府から厚い信頼を受け、和賀江島の入港税の管理や病人の治療・投薬などで活躍しました。以後、真言律宗は幕府の保護と援助を得て、急速に全国に広がっていきました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

テーマ別だから理解が深まる 日本史   朝日新聞出版

図説  日本史通覧              帝国書院

日本の歴史2 鎌倉~安土桃山時代     ポプラ社

【東北の歴史】大和朝廷を悩ませた東北の民とは?

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【東北の歴史】大和朝廷を悩ませた東北の民とは?」というお話です。

 大和朝廷を悩ませた東北の民。それは蝦夷と呼ばれています。蝦夷とは、ヤマト政権に服属しない北関東より北側(東北地方)に住んでいた人々のことを指します。古くからヤマト政権は東北地方を支配しようとしていました。「蝦夷」とは、朝廷に従わない人々をさげすんで呼んだ言葉です。

 

 ヤマト政権がはじめて東北の地に兵を送り込んだのは、西暦110年のことです。ヤマトタケルが東北遠征したことが『日本書紀』に記載されています。また、『宋書倭国伝には、倭王武雄略天皇)が東北遠征についての記述があります。 

 飛鳥時代になると、斉明天皇(第35代)阿倍比羅夫率いる水軍を秋田方面に派遣し、東北支配の拠点となる城柵(とりで)が築城され、兵を置きました。647年の渟足柵(ぬたりのき)の設置や648年の岩舟柵(いわふねのき)がそれにあたります。

 奈良時代になって、律令国家としての体制を完成させつつあった大和朝廷は国家としての支配領域を広げようと、東北地方の進出をさらに本格化させました。708年には日本海側に出羽柵(山形県)が設けられ、712年には国府(政庁)として出羽国が設置された。733年には秋田城が築城されると、ここを砦として日本海側の蝦夷征伐はひとまず完了しました。

 一方、太平洋側でも東北征伐が進みました。724年に多賀城宮城県)が築かれ、そこを拠点として鎮守府が置かれ、国府(政庁)として陸奥国が設置されました。以後、多賀城奈良時代を通じてヤマト朝廷の東北征伐の拠点となり、759年には桃生城が、767年には伊治城が築かれるなど徐々に蝦夷を北へと押し上げていきました。

 なお、朝廷の東北進出は、日本海側は海から、太平洋側は北上川に沿って行われていることに注目したい。

 しかし、奈良時代末期の780年、蝦夷の豪族で朝廷に従っていた伊治呰麻呂が朝廷から税をとられるなどの自由が奪われるのを嫌い、反乱を起こしたのち、多賀城を攻め落とされるという事態にまでなりました。

 これをきっかけに、蝦夷側の反乱も激しさを増し、以後20年以上におよび蝦夷は抵抗を続けました。

 こうした中、788(延暦9)年に、朝廷はついに大規模な蝦夷征伐に乗り出しました(第1回蝦夷征伐)。朝廷は「蝦夷」を「征伐」する武将たちの「総大将」として紀古佐美(きのこさみ)を征夷大将軍に任命し、大軍を東北に派遣しました。現在、武家の最高位として一般的に知られている征夷大将軍は、もともとは「蝦夷」を「征伐」するための最高司令官として朝廷が臨時に設置した役職だったのです。

 しかし、翌789(延暦8)年、紀古佐美率いる官軍は、蝦夷の首長・アテルイによって潰走させられました。これを受けた朝廷は、791年に第2回蝦夷征伐として大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大将軍に任命して再び大軍を東北に派遣しました。そして794年あたりから服属した蝦夷たちを関東以西の諸国に移住させていきました。しかし、服属した蝦夷たちは公民化がされず、俘囚として一般の公民とは異なる計帳で管理され、いわれなき差別も受けました。

 

 平安時代の最初の天皇である桓武天皇蝦夷征伐を続行しました。797年に、坂上田村麻呂征夷大将軍に任命し、アテルイの討伐を命じました。田村麻呂は渡来人の子孫と伝えられており、少年の頃から武芸に優れており、身長は175センチ、体重は120キログラムと当時としてはかなり筋肉質で大柄な男だったと言われています。目は鷹のように鋭く、怒れば100万の兵が恐れる一方で、笑えば幼子でもなつく人格者でもあったそうです。

 さて、蝦夷征伐を任された田村麻呂は4万の大軍を率いて東北へと出兵しました。801年、田村麻呂は多賀城を拠点として蝦夷征伐を開始し、ついに蝦夷の根拠地であった胆沢地方を攻め落とすことに成功しました。

 翌802年には胆沢城が築かれ、鎮守府多賀城からこの地に移し、翌803年には田村麻呂は、さらに北へと進出して志波城(岩手県盛岡市)を築きました。ここに大和朝廷の太平洋側の蝦夷支配は北上川中流域にまで及びました。

 こうした田村麻呂の蝦夷征伐にかなわないとみたアテルイは降伏しました。田村麻呂はいさぎよく降伏したアテルイを京都に護送し、命だけは助けるよう朝廷に願い出ましたが叶わず、アテルイは処刑されました。田村麻呂は大変悲しんだと言われています。

 

 以後、蝦夷征伐は805年に桓武天皇が一時中断するも、811年には再開され、文室綿麻呂征夷大将軍に任命し、ついに蝦夷は平定され、大和朝廷の支配領域は9世紀半ばまでには、東北地方北部(青森県あたり)にまで及ぶようになりました。

 しかし、朝廷に従った蝦夷は公民化はされず、俘囚として陸奥国出羽国国司に忠誠を誓い、特産物を貢ぐようになりました。しかし、国司の横暴が強まるにつれ、不満をもった俘囚は政府に抵抗するようになり、後の前九年合戦へとつながっていくのでした・・・・。

 今回は、東北の歴史として大和朝廷蝦夷征伐の歴史を見ていきました。朝廷側から蝦夷と呼ばれた人達の指導者だったアテルイは後世の書で「悪路王」として登場するようになり、江戸時代には極めて恐ろしい顔の像が製作さて、その像は現在、鹿島神宮に安置されています。

 

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

図説 日本史通覧   帝国書院

日本の歴史1   旧石器~平安時代   ポプラ社

【臨済宗】なぜ禅宗は武士層に受け入れられたのか【無関普門】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【臨済宗】なぜ禅宗は武士層に受け入れられたのか【無関普門】」というお話です。

栄西によって日本に導入された臨済宗は、多くの武士層に受け入れられました。武士にとって禅宗とは、精神を鍛える手段なだけでなく、死霊や妖怪を鎮める霊力でもありました。合戦によって命のやり取りをする武士にとって死霊や怨霊は恐怖の対象であり、これは鎮めることは切実な問題だったのです。

 栄西によって日本に本格的に導入された禅宗は、中央・地方を問わず多くの武士層に受け入れられました。特に臨済宗は、鎌倉幕府室町幕府をはじめ高級武士層に受け入れられ、臨済禅の文化は王朝文化(貴族文化)に対抗するものとして日本に根づいていきました。

 鎌倉には後に鎌倉五山となる宋風建築の寺院が建てられ、宋・元から高名な禅僧を多く招き入れました。

 その中でも有名なのが、1253年に鎌倉幕府5代執権・北条時頼南宋蘭渓道隆を開山に迎えて鎌倉に創建した建長寺と、1282年に鎌倉幕府8代執権・北条時宗無学祖元を開山に迎えて鎌倉に創建した円覚寺などです。

 この教えは室町幕府にも受け継がれ、初代将軍・足利尊氏無窓疎石の勧めで天龍寺を建立し、南宋の官寺制度にならった五山十刹の制も作られ、3代将軍・足利義満の頃になると、僧録を置いて官寺を管理し、住職の任命は将軍が行いました。以後、臨済宗は政治に深く関与していきます。

 

 ところでなぜ武士は禅宗を好んだのでしょうか。その理由は、普段から肉体を鍛えている武士たちにとって、禅の修行は精神を鍛える手段として有効だったからです。強い精神性を教え説く禅宗の宗教観が、死を覚悟して合戦に臨まなくてはならない武士の気質に合致していたからでしょう。

 修行を通じて自己自身を深く見つめ、理屈をこねるのではなく、直感的に真理に至ろうとする禅の思想は、頼れるのは自分の肉体だけという武士の生き様に重なったのです。

 また、新興勢力である武士は、きらびやかで高尚な貴族文化にどこか引け目と反発を持っており、それらと強く結びついた天台宗真言宗よりも、新しく興った念仏宗禅宗に親近感を持ちやすかったことも要因のひとつでしょう。

 しかし、武士が禅宗を重用したのは、それだけではなかったようです。中世の人達は、禅僧には死霊や妖怪などの怪異を鎮める力があると信じていました。

 それは、建長寺が埋葬地であり、処刑場でもあった地獄谷に建立されていることや、円覚寺が蒙古襲来(文永・弘安の役)で亡くなった兵士達の霊を慰めるための寺院だったこと、さらには天龍寺後醍醐天皇の怨霊を鎮めるための建立されたことからも想像できます。

 また、京都の南禅寺に伝わっている伝説によれば、臨済宗の僧である無関普門密教僧でも退治出来なかった妖怪を追い払ってしまったといいます。

 1289年、退位した亀山天皇禅林寺殿の南禅院で出家しました。しかし、そこは死霊たちが巣くっており、怪奇現象が多発していることからとても修行どころではありませんでした。そこで頼ったのが無関普門でした。無関普門は東福寺で修行したのち宋にも留学しており、亀山法皇に請じられたときには東福寺第3代住職でした。

 南禅院に入った普門は、弟子20人ほどと南禅院に移り住み、修行生活を始めました。すると、怪奇現象はなくなり、死霊の気配もなくなったそうです。その後、普門は1291年に亀山天皇離宮を奉じて南禅寺を創建しました。

 このように武士にとって禅宗とは、精神を鍛える有効手段なだけでなく、合戦で殺めてしまった死霊や悪霊を鎮める力を持った宗教でもあったのです。

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

眠れなくなるほど面白い  仏教  渋谷甲博=著 日本文芸社

図説 日本史通覧   帝国書院

【蝦夷の歴史】北海道の独自の歴史とは?

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【蝦夷の歴史】北海道の独自の歴史とは?」というお話です。

 

北海道は、もともと蝦夷ヶ島と呼ばれ、古来よりアイヌ民族が住んでいた。

これまでアイヌ民族は、和人(倭人)と人種を異にするとされてきたが、実際のところ、どの人種に相当するのかは未だ確定されていません。近年では、和人と同一民族であったという説も出てきています。

 

本州が縄文時代を迎える頃、蝦夷地も同じように縄文文化が栄えていた。しかし、農耕は導入されず、ずっと狩猟採取の生活をしていた。つまり、蝦夷地には弥生文化流入せず、縄文文化が続いていました。これを続縄文文化と呼びます。

 

その後も、蝦夷地は大和政権の支配が行き届かず、本州が奈良・平安時代を迎える頃には、オホーツク文化の影響を強く受けるようになり、内面が擦文され光沢をもつ擦文土器を特徴とする擦文文化という独自の文化を開花させました。

アイヌの人々は、北海道産の鮭や昆布、鷲の羽、それに千島列島方面でとれるラッコの毛皮などを津軽地方にもたらし、本州産の米・鉄器・陶磁器などと交換していました。彼らは北方の樺太(サハリン)や中国大陸の沿海地方にも進出し、活発に交易・交流をしていました。

 

12世紀末に奥州藤原氏が滅亡し、鎌倉時代に入ると、東北地方のほとんどは北条氏の所領となりました。3代執権・北条泰時は安東氏という得宗の家臣を蝦夷地代官に任じ、蝦夷地の開拓を任せました。その目的は、彼らが行っている交易を管理し、その利益を収奪することで、いわば侵略ともいえるでしょう。

安藤(安東)氏は、津軽半島の十三湊(青森県五所川原市)を根拠地とし、アイヌとの交易で富を蓄えるようになりました。

アイヌの人々との交易でもたらされた品々は、十三湊と若狭湾敦賀福井県敦賀市)や小浜(福井県小浜市)をむすぶ日本海航路によって京都まで運ばれました。十三湊は日本海航路の中心となり、13世紀の後半以降、安藤氏は交易による富で「海の大名」としてさかえました。

 

しかし、鎌倉時代の末、津軽地方では住民の反乱が起こり、それに単独相続による安藤氏一族の家督争いも加わり、争いが広がっていきました。その争いは南北朝の内乱によって拡大し、14世紀の末には、戦乱から逃れて蝦夷ヶ島にわたる人々が増えてきました。

津軽海峡をわたって蝦夷地の南部に移り住んだ人々は和人とよばれ、各地に砦と住居を兼ねた館(たて)を築き、アイヌの人々と交易を始めました。

しかし、和人の進出は、次第にアイヌの人々の暮らしを圧迫するようになりました。その目的は、やはり彼らが行っている交易を管理し、その利益を収奪することにありました。

もちろんアイヌ民族も和人に黙って従ったわけではなく、室町時代中頃から、たびたび反乱を起こしては鎮圧されるということが繰り返された。中でも大きな反乱は1457年の大首長のコマシャインを中心とする大規模な戦争であり、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こりました。アイヌ側は道南十二館とよばれた和人の館を打ち破る勢いを見せたものの、コマシャイン父子が討たれて戦いは終わりました。

 

安土・桃山時代になると、安東氏の代官だった蠣崎(かきざき)氏が館の主たちをまとめて蝦夷が島で勢力を広げるようになり、交易の中心を十三湊から北海道南部に移し、豊臣秀吉徳川家康にも臣従して蝦夷ヶ島の支配圏を認められました。

 

江戸時代になると、蠣崎氏は松前氏と改名し、松前藩主として幕藩体制の一画に組み込まれ、アイヌ民族との交易によって藩を成り立たせました。

しかし、この松前藩からの過酷な収奪行為にアイヌ民族はやはり反乱を起こし、1669年に起きたシャクシャインの戦いは、アイヌ民族最大の反乱と呼ばれています。松前藩津軽藩弘前藩盛岡藩などの協力を得ることで、この反乱を鎮圧。以降、アイヌ民族は全面的な服従を強いられたのでした。

それでも江戸時代中期(寛政年間)にクナシリやメナシ地区でアイヌ民族が立ち上がり、クナシリの戦い・メナシの戦いを起こすも、いずれもアイヌ側の敗戦に終わっている。

その原因としては、アイヌ民族が民族同士の争いもあって、そのあたりをうまく利用されてしまったことや、松前藩側が本州からの武器や物資を調達できたことなどが挙げられます。こうして蝦夷地は江戸幕府の直轄地となりました。

 

そして19世紀中ごろ、江戸幕府が崩壊し、明治維新が起こりました。薩長を中心とする新政府軍と旧幕府軍の生き残りの戦いである戊辰戦争が各地で起こり、その最終決戦となったのが函館の五稜郭での戦いでした。1868(明治元)年、新選組の生き残りである土方歳三幕府陸軍の整備をしていた大鳥圭介らが函館の五稜郭を占拠。幕府海軍を率いた榎本武揚を総大将に仰ぎ、後に蝦夷地共和国という臨時政権を打ち立てた。翌1869年に新政府軍が上陸すると、蝦夷地政権は善戦虚しく敗れ去りました。

こうして幻に終わった蝦夷地共和国でしたが、大鳥圭介榎本武揚は生き残り、後に新政府に参加しています。

その後、蝦夷ヶ島は北海道と改名され、開拓使という役所が置かれ、屯田兵に任命された士族たちによって開拓が進められ、時には武器を持って先住民と戦うこともあった。

そして「少年よ、大志を抱け」で有名なクラークらのお雇い外国人の協力もあり、北海道の開拓が進められ、今日に至るのです。

 

こうして開拓された北海道でしたが、現在の北海道には日本政府や北海道庁の管理が行き届いていない領土があります。それが北方領土です。

これは我が国が抱える大きな領土問題のひとつと言えるでしょう。

歴史的・国際法的には、日本の領土でありながら、事実上はロシアの統治下に置かれています。

おそらく、今後ロシアが北方領土の返還に応じることはないでしょう。ロシアや中国のような国は、様々な国と接しているため、日本以外にも多くの領土問題を抱えています。そんな中で1ヶ国でも領土問題を解決してしまうと、他の全ての国との領土問題も解決しなければならないからです。

その結果、自国の国力低下を招く危険性も含まれているのです。

【琉球の歴史】中継貿易で栄えた琉球とは?

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【琉球の歴史】中継貿易で栄えた琉球とは?」というお話です。

 

沖縄は、かつて琉球と呼ばれていました。琉球が歴史の最初に出てくるのは、607年の隋(中国)の『隋書』東夷伝です。

「隋の煬帝琉球に使者を遣わしたが、全く言語が通じなかった。」

翌年、煬帝服従しない琉球の宮殿を焼き払い、3000人を捕虜としたと伝えられています。

 

古来、琉球人は貝塚文化とよばれる漁労・採取生活をしていたが、10世紀になると、稲作がはじまり、やがて貧富の差も生まれました。

12世紀前後になると、沖縄各地で按司あじ)と呼ばれる首長が出現し、グスクが形成されていきました。グスクとは、集落のことでしたが、各集落同士が武力闘争をはじめるようになると、次第に立派な石垣によるグスク(城)が築かれるようになり、按司を中心に武力闘争を開始しました。

 

14世紀になると、按司の抗争によって統合が進み、沖縄本島は、北山・中山・南山の3つの勢力に分かれて対立するようになりました(三山分立時代)。

1368年、中国に明が建国されると、4年後の1372年、明から朝貢を求める使者が島にやってきました。これに最初に応じ、明に朝貢を行ったのは中山王で、その後、北山王、南山王も続きました。

3つの王国が三つ巴の勢力争いをする時代は約100年続きましたが、15世紀に入ると、南山王の支配下にあった佐敷グスク(沖縄県南城市)から尚巴志という漁夫の子が現れ、島の統一に乗り出しました。

尚巴志は、購入した大量の鉄を農具に仕立てて農民に分配し、1406年、彼らの助力を得て苛政を敷く浦添グスク(沖縄県浦添市)の中山王を攻め滅ぼした後、本拠を首里グスク(沖縄県那覇市)に移しました。

さらに、尚巴志は1416年には北山王を、1429年には南山王を討伐して全島を平定する。そして明から「尚」姓を賜り、支配権を承認され、琉球王国を創設しました。

しかし、尚巴志の血を継ぐ王統(第1尚王朝)は、1470年に暴政を行った尚徳の代でクーデターによって絶え、代わって農民だった金丸という人物が掌握、尚円と称して第2尚王朝を打ち立てました。

この第2尚王朝は、尚円の子である尚真の時代に黄金期を迎え、16世紀には北は奄美大島(鹿児島県)から南は与那国島にいたる島々が琉球王国の統治下に入りました。

また、尚真は、明に朝貢してさかんに朝貢貿易を行いました。しかし、琉球王国には朝貢貿易に必要な輸出品(みつぎ物)は、国内でとれる硫黄と馬などの特産品くらいしかありませんでした。

そこで、日本や朝鮮、東南アジアとも交易をおこない、日本からは美術工芸品や刀剣・銅などを、朝鮮からは陶磁器や朝鮮人参(薬用植物のひとつ)、東南アジアからは香料、染料、スズ、象牙などの産物を手に入れました。

各地から集められた産物は、明への貢物となったり、他の地域へ輸出されたりしました。こうして琉球王国は中継貿易の基地として栄えました。

琉球王国の貿易港は、主に那覇港であり、同港には島の各地からの産物を乗せた琉球船がさかんに出入りし、港に集められた産物を求めて外国船も数多く出入りしました。

尚真は、海外との交易によって繁栄を築きました。

このように琉球王国は、明・朝鮮・日本・東南アジア各国に積極的に船を遣わし、さかんに貿易を行うことで、国際交流の架け橋としての地位を不動のものにしました。

しかし、このような中継貿易の隆盛は、16世紀のポルトガルをはじめとしたヨーロッパ船のアジア来航とともに終焉を迎えました。

こうした状況につけこんで、薩摩国の島津氏は琉球王国に様々な要求をつきつけるようになり、1609年には、ついに武力制圧されてしまいます。以後、琉球王国は、島津氏のもとで長年にわたり搾取され続けることになりました。

そして、明治維新後の1872年、沖縄本島は鹿児島県管下の琉球藩となり、1879年には、明治政府が軍隊と警察官を同島へ派遣、その武力を背景に琉球王・尚泰首里城の明け渡しを命じ、琉球王国は消滅。代わりに沖縄県が設置され、同地は完全に日本に合併されたのでした。

【鎌倉幕府滅亡1】なぜ鎌倉幕府は倒されたのか【楠木正成】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【鎌倉幕府滅亡1】なぜ鎌倉幕府は倒されたのか【楠木正成】」というお話です。

 

鎌倉幕府の滅亡する直接的なきっかけをつくった天皇が1318年に即位しました。後醍醐天皇(第96代)です。

後醍醐天皇は、皇太子の頃から気性の激しい性格で、何より学問に熱心でした。その姿は、周囲からも一目置かれており、「稽古の君」と言われるほどでした。

そんな後醍醐天皇が勤しんでいた学問が宋学でした。宋学鎌倉時代に禅僧によって宋から日本に持ち込まれた学問で、大義名分と正統論を展開する朱子学です。

宋という国は13世紀にモンゴル族の元に押され、南に逃れた王朝だったため、異民族の支配に対して自分達こそ正統であるという意識と大義名分に大変敏感でした。

そんな「稽古の君」で気性の激しい後醍醐天皇が幕府に不満を覚える出来事が起こります。

 

それは皇位継承問題でした。1272年以来、皇室は、持明院統後深草天皇系)と大覚寺統亀山天皇系)に分裂して皇位を争ってきました。それを見かねた鎌倉幕府は1317年、両統から交互に天皇を出すように調停を下していました。(文保の和談)

後醍醐天皇大覚寺統)は、皇太子となっていた邦良親王持明院統)が若死にすると、自分の子である護良親王を皇太子にしたいと考えました。

しかし、鎌倉幕府執権・北条高時はこれを禁止し、持明院統量仁親王(後の第97代後伏見天皇)を皇太子に立てました。

これは持明院統大覚寺統から交互に皇位につく原則にしたがっただけなので、幕府は悪くありません。

しかし、これに後醍醐天皇は非常に腹を立てました。

「皇室の皇位継承に幕府が干渉するのは許すことのできない不遜な行いだ。」

後醍醐天皇は、天皇親政こそが国政の正しい姿だと考え、日本の正統たる天皇の地位を幕府から守るという名分論によって、ついには倒幕計画まで企てるようになりました。

後醍醐天皇は近臣の日野資朝日野俊基らとはかり、倒幕の計画を進め、1324(正中元)年、後醍醐は幕府に不満を持つ御家人畿内の武士、寺社などを味方にして、幕府の出先機関である京都の六波羅探題を攻めようと計画しました。

しかし、その企てが密告によって幕府の耳に入ってしまい、天皇方の側近数名が流罪に処されました(正中の変)。一方で、後醍醐自身は鎌倉に使者を送り、「自分は一切かかわりなかった」と言い張ったので、罪を免れました。

しかし、以後も後醍醐は諦めず、1331(元弘元)年、再度倒幕を目論みました。当時の御家人は、元寇への負担や貨幣経済の浸透によって貧窮化し、それが得宗専制政治に対する不満となって幕府内にうずまいていることを、後醍醐天皇は知っていたので、倒幕をあきらめなかったのです。

 

しかし、その計画も天皇側近で働いていた吉田定房の密告により幕府に漏れ、倒幕計画は再び挫折しました(元弘の変)。後醍醐天皇三種の神器を持って京都御所を脱して山城国京都府笠置山に籠って近国の武士たちに倒幕を呼びかると、続々と武士たちが集まってきました。

 

この知らせに驚いた鎌倉幕府は、鎌倉から大軍を送り、笠置山を包囲しました。後醍醐天皇の軍は笠置で籠城し、50万の北条幕府軍とよく戦いましたが、やがて陥落しました。

 

このとき、後醍醐天皇のよびかけにこたえて兵をあげた武士の中に、河内国赤坂(大阪府千早赤阪村)を本拠とする悪党(幕府に属さない新興武士)の楠木正成でした。

城を脱出した後醍醐天皇は、正成の立てこもる赤坂城に向かう途中で幕府軍に捕まりました。幕府は後醍醐天皇を退位させる代わりに持明院統光厳天皇を立て、翌1332(元弘2)年3月、後醍醐を謀反人として隠岐(島根)に流しました。文観も流罪となり、日野俊基佐渡国に流されていた日野資朝は処刑されました。これを元弘の変といいます。

 

 

楠木正成は、後醍醐天皇が逮捕された後も、怯むことなく、幕府に反旗をかかげ孤軍奮闘していたのです。

正成は赤坂城に立て籠り、幕府軍と奮闘していましたが、長期戦となって状況が不利になったため、城に火を放って抜け出し、一時姿をくらましました。

しかし、正成は再び挙兵し、金剛山の中腹に千早城を築いて立てこもりました。

幕府軍は、六波羅探題から動員令を出して80万の大軍を千早城に送り込みました。

また、楠木正成には莫大な懸賞金がかけられ、驚くことに100万の大兵が正成の首を求めて千早城に群がったという。対して楠木勢はわずか1000人。ところが千早城は最後まで落城しませんでした。

鎧を着せたワラ人形を城外に並べてオトリにして敵を寄せ集め、上から巨石を落としたり、煮え湯や大便をかけたり、たいまつを投げ落とした油を注いだりと、当時としては奇想天外な戦い方をし、敵につけ入るすきを与えませんでした。

正成がゲリラ戦を展開している間、後醍醐は虚を突いて隠岐を脱出。諸国に倒幕の綸旨(命令書)を散布して挙兵を呼びかけた。

それに応えた後醍醐の皇子の護良親王吉野山奈良県吉野町)で兵を挙げ、播磨国兵庫県南部)の武将・赤松則村も挙兵しました。

 

その結果、各地で有力武士が反旗をひるがえして形勢は逆転、幕府は崩壊へといたるのでした。つまり、後醍醐天皇の強靭な意志と、楠木正成という名もなき1人の悪党の踏ん張りが、時代を大きく動かしたのです。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC