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【永仁の徳政令】御家人が貧窮した3つの原因とは?

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【永仁の徳政令御家人が貧窮した3つの原因とは?」というテーマでお伝えします。

 

元寇(蒙古襲来)の前後から、御家人たちの困窮はますます強まっていました。それは元寇に対する十分な恩賞がもらえなかっただけでなく、惣領制に伴う、分割相続という相続形態が所領の細分化を招いたこと。そして貨幣経済の浸透によって、多くの御家人たちが土地を担保に借上(金融業者)から借金をしており、返済の充てがなくなった御家人たちは、土地を取り上げられてしまいました。そんな御家人の困窮に対し、鎌倉幕府は強権的な政治姿勢で、1297年に永仁の徳政令と呼ばれる法令を出しました。

 元寇(蒙古襲来)前後の13世紀後半から、御家人たちの生活は困窮していきました。その理由は以下の3つです。

  • 元寇に対する恩賞が不十分であったこと。
  • 分割相続を繰り返したことで、領地が小さくなり、その分徴収できる年貢が少なくなってしまったこと。
  • 貨幣経済が浸透したこと。

1つづつ見てきましょう。

 元軍の襲来で御家人たちは奉公にはげみ、大きな負担を強いられました。しかし、元寇は外敵防御だったため、相手方の領地を奪うことが出来ず、幕府は武功のあった御家人たちに十分な恩賞を貰うことができませんでした。

 さらに、分割相続を繰り返すことによって、領地が小さくなり、生活が苦しくなる御家人が増えました。そのため、借金で領地を手放す者も増えてきました。

 そして、貨幣経済が浸透したことで、御家人たちもお金(貨幣)が必要になり、自らが持っている土地や地頭職を担保に、借上などの金融業者からお金を借りていました。しかし、返済が出来なくなった御家人たちは、当然ですが、土地や地頭職を取り上げられてしまいました。

 このように御家人たちの困窮は恩賞不足なだけでなく、社会の変動によっても、もたらされたのです。

 こうした御家人たちの困窮に対処するべく鎌倉幕府は、1297年、に徳政令永仁の徳政令)を出しました。これは地頭・御家人が借上(金融業者)などに土地を売ったり、質に入れたりした地頭職などを無償で取り返してよいという内容です。このような強権的な政策によって、幕府は地頭・御家人を救済しようとしたのです。

 徳政とは、徳のある政治という意味ですが、もともとは天変地異や疫病などが起こるのは、政治を行う者にいたらないところがあるからだという考えから、庶民の苦しみをやわらげるために立派な政治を行うことを徳政と言っていました。しかし、この永仁の徳政令が出されてからは、売ったもの、質にあずけたものを、無償で取り返すことが出来ることが徳政たといわれるようになりました。室町時代になると、農民らが借金の帳消しを求めて、しばしば徳政一揆を起こすようになります。

しかし永仁の徳政令は、抜本的な御家人たちの経済力の回復にはつながりませんでした。こうなると、御家人にとって、幕府に魅力は無くなってしまいます。そんな中で、京周辺や畿内を中心に、幕府にもどこにも属さず、集団で略奪などを繰り返す、悪党と呼ばれる新しい武士勢力が台頭しました。これが鎌倉時代後期の大きな変化の1つです。

 幕府が強権的な政治姿勢で、徳政令を出したことで、借上などの金融業者は以後、御家人には絶対にお金を貸さないという手段をとりました。当然でしょう。しかし、これによって貨幣経済が浸透しているご時世で借金さえ出来なくなった御家人の生活はかえって苦しくなり、徳政令は抜本的な御家人たちの経済力回復には至りませんでした。これによって御家人たちの不満は高まっていきました。

 さらに、諸国の守護が有力御家人から北条氏一族へと次々とかえられ、全国の守護の約半分が北条氏の一族で占められるようになりました。しかし、北条氏一族は勢力ばかり強くなり、失政を続けてしまったことか幕府は御家人からの信用を失い、幕府の基盤であった御恩と奉公の関係も揺らいでしましました。

 そして、幕府の支配体制をゆさぶる動きが各地で起きてしまいました。京や畿内周辺では、荘園領主に対抗する地頭や非御家人の新興武士達が、武力を背景に年貢の納入を拒否し、荘園領主から年貢を奪い、乱暴をはたらくなどしました。彼らは幕府に属さないという意味もこめて、悪党とよばれるようになりました。

 鎌倉時代末期、大和国奈良県)では、悪党と化した武士たちが奈良の春日大社を襲撃し、御神体として祀っていた鏡を奪い取る事件が発生しました。そんな悪党たちを征伐したのが春日大社とつながりの深い興福寺の軍勢で、山に立てこもる悪党たちを討ち取るべく結集しました。

 そんな状況ですので、朝廷や貴族からは「悪党をめしとるように」という要請がしばしば出されました。鎌倉幕府は守護や六波羅探題に命じて捕らえさせようとしても機動力のある悪党たちを捕らえることは容易ではなく、有効な対策がとれませんでした。

 悪党が襲う場所は、14世紀のはじめころから港や市場などへと拡大していきました。海上交通の拠点を支配下におさめていた北条氏にとって、これを放置しておけば重要な経済基盤を失うことになります。悪党を取り締まることが、幕府の緊急の課題となったのです。

 幕府は中国・四国地方に悪党討伐にあたる使節を派遣するなどしましたが、悪党の活動はいっこうに止まず、やがて東北地方からも住民の反乱が伝えられました。鎌倉幕府の勢いの衰えは、もはや誰の目にも明らかでした。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

聴くだけ 日本史  古代~近世  東京受験日本史研究会  Gakken

読むだけですっきりわかる  日本史  後藤武士=著  宝島社文庫