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【鎌倉時代】武士の生活はどのようなものだったのか

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【鎌倉時代】武士の生活はどのようなものだったのか」というテーマでお伝えしたいと思います。

鎌倉時代の一般的な武士たちは、どのような生活をしていたのでしょうか。当然ですが、武士の社会は、ずっと合戦があったわけではありません。武士達の日常生活を衣食住に中心に見ていこうと思います。

武士達は多くの場合、開発領主やその系譜を引く在地領主でした。武士たちは、根拠地として館(やかた)という屋敷を構え、ここを拠点に農業経営を行いました。彼らは単に農民たちを支配するだけでなく、佃・門田という直営地を持ち、下人などに耕作させるなど、農業経営者としての側面を持っていました。

 荘園が全国に急に増えだしたのは、12世紀の後半からで、この時代に荘園をつくったのは、農民を指揮して地域の開発を積極的に進めていった武士たちでした。武士たちには、開発した地域を支配する権限がある程度は認められていました。しかし、その地位は不安定で、権限も限られていました。そこで、その土地を中央の有力な貴族や寺社に寄進して保護を仰ぎ、自らは荘官となって現地を管理する道を選らんだのです。このような武士を開発領主といいます。

 武士たちはそれぞれ開発した土地の名を自分たちの名字にしました。武士がつくりあげた土地は「名字の地」とよばれ、一族の精神的なよりどころとなりました。武士達は領地を失うことを何よりも不名誉だと考え、一所の土地に命をかけたのでした。そのため、「一所懸命の地」ともよばれ、武士たちはたいせつに守り子孫に伝えました。

 

 武士達は開発した領地を中心にして、周辺に支配を及ぼしていきました。そのいちばんだいじな部分にあったのが武士のです。館は交通の便が良く、土地の開発の中心となるような場所を選んで作られました。

 館の周囲には堀がめぐらされており、さらにその内側には生け垣や板塀で囲まれました。堀は敵の侵入を防ぐとともに、農業用水の確保にも役立ちました。門には見張りの櫓を構え、敷地内に主人が暮らす母屋のほか、台所や厩(うまや)、倉庫、井戸などがありました。

 館の周辺には武士が直接経営する佃、門田、門畑などとよばれる田畑がありました。そこを館内に住む下人たちに耕させました。

 さらに、その直営地のまわりには、一般の農家や田畑があり、武士たちはこれらから地域を支配して、年貢や公事、夫役(労働)を徴収しました。

また、武士達は弓馬の道をきわめることが自らの存在価値だと考えていましたので、騎射三物のような、馬に乗って正確に弓を射るという武芸の訓練を絶えず行っていました。そして、いざという時には、一族が団結して戦います。そのような団結の仕方を「惣領制」といいます。 

 武士の生活の中で、もっとも重んじられたのは武芸でした。武士は子供のときから弓や乗馬を教えられ、日常的に武芸を磨き、心身を鍛えました。館の中には武芸の訓練が出来る広い庭があり、また館のまわりには乗馬の訓練が出来る馬場や広い牧場(まきば)などもありました。

 馬に乗ったまま次々と的を射る流鏑馬(やぶさめ)、笠や板を的にして射る笠懸(かさがけ)、犬を追って射る犬追物(いぬおうもの)は騎射三物といわれ、武芸の訓練としてさかんに行われました。このような生活のなかから「もののふの道」などとよばれる武勇や忠節を重んじる武士らしい心構えが育っていきました。

 武士の鍛えられた身体は、健康的な食習慣によって作られました。武士の普段の食事はたいへん質素なもので、栄養は主として米からとりました。量としてはたくさん食べることが出来、質としても玄米食だったので、ビタミン不足を防ぐことが出来ました。

 質素な暮らしぶりは服装にもうかがえます。武士の普段着は直垂(ひたたれ)とよばれる上衣(うわぎ)ち袴(はかま)が同じ生地でつくられた服で、上衣のすそを袴の中に入れた活動的なスタイルです。礼服には、貴族が狩りなどのときに着た狩衣を用いました。頭には、折烏帽子(おりえぼし)ちよばれる折りたたみ式の烏帽子(えぼし)をかぶりました。

烏帽子(えぼし)・・・絹に黒うるしをぬった帽子で、貴族・武士が着用した。庶民は麻布製のやわらかいものをかぶりました。

 

 武士たちは地域ごとに集団をつくりました。これを武士団とよびます。武士団を結び付けているのは、血のつながりと主従関係でした。

 本家・分家を合わせた一族では、本家を継ぐ息子を惣領(そうりょう)、その他の子を庶子(しょし)とよんで、惣領のもとに結束しました。惣領は長男とは限らず、正妻の子のなかから能力のある者を親が選びました。

 戦争の際には、郎党などとよばれる従者を率いて参加しましたが、一族は必ずまとまって出かけるのが習わしでした。つまり、惣領のもとに庶子たちが団結して一族として一緒に戦ったのです。

 御家人では、大番役などのつとめも惣領がまとめてはたすことになっており、惣領は庶子たちに役を割り当てて、彼らを率いて勤めました。

 以上、このような武士の在り方を惣領制と呼びます。

 

 さらに、鎌倉時代の武士社会は均分相続であり、親の土地を相続する場合には庶子にも分割して土地が与えられました。つまり、惣領はもちろん、庶子にも一定の財産が与えられ、独立した家として続いていったのです。しかし、均分相続の場合だと財産が分割されてしまうため、世代が進むに従ってどんどん財産は細分化されてしまいます。それで承久の乱以後、実際に御家人の所領は細分化されていき、そして元寇の後に御家人が貧窮した原因のひとつとなるのです。

鎌倉時代の武士社会では女性もその地位を認められていました。男達の留守中に郎党たちをとりまとめたり、他の兄弟と同じく親から所領を譲り受けることも出来、さらには地頭になることも出来ました。

 武士の家の中を取り仕切ったのは、妻でした。主人や男兄弟たちは戦(いくさ)に出陣したり、鎌倉の幕府や京都の内裏(天皇の住まい)で警護につとめなければならなかったので、妻は男達が留守中も郎党たちを取りまとめ、一家を束ねなければなりませんでした。夫や父、男兄弟たちを戦場に送り出した武家の女性たちは、男達の無事を神仏に祈りながら留守をまもりました。そして留守家族のもとには身内の討ち死にの知らせが入ることもあり、その際には深い悲しみに暮れました。

 鎌倉時代の武士社会では、意外にも女性の地位は高く、女性も男の兄弟たちと同じく均分相続によって親から所領を譲り受けました。

 こうして自立した生活が送れた女性は、結婚してもその所領は、夫のものにはならず、子供がいなく、相続先がない場合には妻の実家に返すことになっていました。

 女性は結婚によって、自分の親族と夫の親族を結びつける非常に重要な役割を果たしていました。夫が死んだときには、妻は出家して尼となり、夫を弔い、残った家を守る決意を固めました。夫に先立たれた妻は後家とよばれ、夫の財産を受け継いで領地の経営を行ったり、自分の意志で領地を子に与えること出来ました。後家の地位も高く、親不孝をした子には遺産を与えなくてもよいという決まりが「御成敗式目」にも記されていました。

 後家として最も大切な仕事は、夫の後を継ぎ、有能な家の後継ぎを選び、先祖伝来の土地を子孫に受け渡すことでした。

 また、鎌倉時代には女性でも男と同じように地頭になることも出来ました。女性が親や夫の遺産として地頭職を譲り受けることはごく普通のことでしたし、幕府も「女性だから地頭として認めない」ということはありませんでした。

 しかし、女性であっても地頭である以上は、幕府への奉公につとめなければなりません。女性の地頭の場合、軍役や警護役は父や男兄弟、あるいは子が代理でつとめました。また、銭を払って人を雇い、人数をそろえて奉公につとめさせることもありました。

 

 今回は、鎌倉時代の武士社会の慣習や生活についてみてみました。武士達の生活は農民たちの年貢や労働によって支えられていました。こうして支配者階級となった武士ですが、その生活は自由で贅沢なものではなく、普段は武芸に励んで心身を鍛え、食生活や服装はたいへん質素なものでした。また、武士社会は女性の地位も高かったことも注目するべき点でしょう。

 

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

教科書よりやさしい日本史  石川晶康=著   旺文社