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【鎌倉幕府滅亡2】なぜ鎌倉幕府は倒されたのか【足利尊氏】

こんにちは。本宮 貴大です。

鎌倉幕府滅亡2】なぜ鎌倉幕府は倒されたのか【足利尊氏

 

倒幕を幾度も試みる後醍醐天皇の執念と、河内の悪党・楠木正成の奮闘によって、鎌倉幕府は存亡の危機に瀕するのでした。一方で幕府軍は大軍なので、そう簡単に駆逐出来ません。

 

しかし、その幕府軍も正成が籠城する千早城を中々落とせませんでした。幕府軍が総力を挙げて戦っているのに、ゲリラ戦を続ける正成に悪戦苦闘し、何カ月経っても落とせない。

「最近の幕府は、あんな小さな城ひとつ落とせないのか。世も末だな。」

そんなことが天下に知られてくると、以前から幕府に不満を持っていた連中が各地で反幕府の兵を挙げ始めました。

護良親王の令旨を受けた播磨の赤松円心も挙兵し、官軍として京都へ攻め入った。

そのどさくさに紛れて、隠岐(島根)島を脱出した後醍醐天皇は、伯耆国鳥取県)の名和長年に迎えられ、兵を挙げました。後醍醐天皇は船上山(鳥取県琴浦町)に仮の皇居をかまえ、「朝廷の敵を討て」と全国に命令を出しました。

 

幕府は後醍醐天皇を何としても捕らえるため、源氏の血を引き、北条氏に次ぐ幕府の有力者であった足利高氏を大将として大軍を京都に向かわせました。

ところが、高氏はひそかに後醍醐天皇のもとに使いを送り、天皇側につく決心を固めていました。

 

船上山を攻撃するふりして丹波国篠村(京都府亀山市)まで進んだところで、尊氏は幕府に背いて倒幕の旗を掲げました。高氏の呼びかけで各地の有力御家人は次々に倒幕軍が加わりました。集まった軍勢を率いて尊氏は京都に取って返し、赤松則村らと協力して六波羅探題を攻めました。

六波羅探題北条仲時は、持明院統後伏見上皇花園上皇、そして光厳天皇を連れて鎌倉に逃れようとしましたが、近江国の番場宿(滋賀県米原市)で悪党らの集団に襲われ、仲時とその家臣ら430人あまりが自害に追い込まれ、上皇天皇は京都に送り返されました。

 

その頃、関東では足利氏と同様に源氏の血を引く御家人新田義貞が倒幕のために立ち上がりました。義貞は本拠である上野国新田荘(群馬県太田市)で挙兵し、鎌倉目指して進撃をはじめると、関東の武士たちが次々と味方にかけつけ、みるみるうちに大軍に膨れ上がりました。

三方を山に囲まれ、もう一方は海に面している鎌倉はこれまで一度も外部から攻め入られたことのない守りの固い地でしたが、義貞は稲村ケ崎の海岸に回り込んで波打ちぎわを突破し、鎌倉市中に攻め込みました。まもなく、各方面から新田軍が市中になだれ込み、幕府軍と激戦となりました。抵抗をあきらめた北条高時は、北条氏一門や御内人870人あまりとともに、北条氏代々の墓のある東勝寺で自害しました。ここに鎌倉幕府は滅亡しました。1333年5月のことでした。