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【室町文化】人々の暮らしはどのようなものだったのか

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【室町文化】人々の暮らしはどのようなものだったのか」というテーマでお伝えしたいと思います。

 現代の日本人の衣食住や日常の暮らし、そして文化には、日本独特のものが多くあります。それらはいつ頃から始まったのでしょうか。多くの場合、それは室町時代からとされています。室町時代は生活の様々な分野で、現代の私達の生活や文化の基本が形成された時代でした。

 今回は、そんな当時の人達の生活と文化について見ていこうと思います。

室町時代は、和服のもとになった小袖が生まれ、和食の基本が出来上がりました。住居では、書院造の発達によって和風住宅が生まれ、風呂やトイレも生まれ、公共浴場や共同トイレも整備されました。

 和服のもとは小袖にあります。それまで袖口のせまい小袖は、庶民の日常着でしたが、公家や武家は下着として使用していました。これが身分に関わらず小袖を上衣として着るようなったのは室町時代の終わりごろからです。

 男性では、小袖を下に着て、袴を上衣としました。それまで武士の一般的な服装だった直垂(ひたたれ)は、より威厳あるものに改良され、上級武士の礼服にまで格上げされました。中級以下の武士は、直垂の一種である大門や素襖(すおう)を着ました。つまり、直垂、大門、素襖の順に服装の階級が生まれたのです。アニメ『一休さん』をご存知の方なら、蜷川新右衛門の服装が直垂になります。

 女性では、美しい模様の小袖を着て、その上には何もはおらない着流しが多くなりました。しかし、武家の女性や庶民の女性での豊かな人達は、小袖を着て細帯をしめたうえから、打掛(うちかけ)とよばれる丈の長い小袖をはおりました。

 

 食生活の面では、現在の和食に近いかたちが出来上がりました。生のものでは、刺身が登場し、調味料として醤油が使われるようになりました。日本特有の煮物の味もつくられるようになりました。

 さらに、それまで禅宗の寺院でしか食べられていなかった豆腐・納豆・そうめんなどの食品も、一般に普及するようになりました。

食事の回数は、1日2回で、朝と夕方が普通でした。しかし、裕福な家では1日3回をとるものも出てきました。

 調理法も発達し、包丁師とよばれる専門の調理人が生まれ、料理の流派もうまれました。包丁師は、まな板の上で食材に直接手を触れないように、はしを手にして魚や鳥を押さえて調理しました。

 流派によって調理法や配膳のしかたに工夫がされ、武家のあいだでは、日本特有のお膳も生まれました。四角い盆(折敷)に、ご飯と汁、おかずが並べられ、食事の席での礼儀作法も武家を中心に重んじられるようになりました。

 

 住まいについては、書院造が発達し、畳が敷き詰められた部屋が現れるようになり、公家・武家・僧などの住まい、現在の和室とほぼ変わらない姿となりました。

 住まいの施設として欠かせないのが、風呂とトイレです。当時の風呂とは蒸し風呂のことで、湯に浸かるのは湯屋といいました。当時、一般的だったのは、蒸し風呂のほうで、公家・武家の屋敷や寺院には浴室が設けられていました。一方で庶民の家には浴室はなく、代わりに公衆浴場が都市を中心に整備されたので、そこを利用しました。公衆浴場は、たとえば建物の左側が脱衣所なら、右側が蒸し風呂になっており、川などの洗い場に近くに位置していました。

 トイレが整備されはじめたのも、室町時代のころからです。それまでは、庭や空き地などで用を足すことが多かったのですが、京都の町屋などでは共同トイレがつくられるようになり、たまった糞尿は捨てたり流したりせずに、田畑の肥料(下肥)として利用されました。

 

今回は、室町時代の人々の暮らしについて解説してみました。

 

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社