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【足利3代将軍】足利義満の功績と野望とは?【足利義満】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【足利3代将軍】足利義満の功績と野望とは?【足利義満】」というテーマでお伝えします。

室町幕府3代将軍・足利義満

アニメ『一休さん』をご存知の方なら、義満といえば、いつもトンチ小僧にやり込められている間抜けな将軍のイメージが強いかも知れません。

しかし、この義満、かなりの凄腕将軍で、しかも相当な野心家。

武家社会のみならず、公家や朝廷でも権威を振るい、室町幕府の最盛期を築きました。

今回は、そんな足利義満の半生をストーリーとして、彼の功績と野望をみていくことにしましょう。

足利義満の政治的な功績は、南北朝を統一したことでした。各地を旅行し、幕府の絶対的な権威を示すことで、南朝方の有力守護や寺社を北朝側に鞍替えさせようとしました。一方で、力を強めてきた守護大名の勢力は削ぎ落とし、1392年に南北朝の統一を成し遂げ、室町幕府の権力を確立しました。

 鎌倉幕府を倒した足利尊氏は迷ったすえに、幕府を京都(北朝)に置き、室町幕府初代将軍に就任しました。ここで再び、政権の中心は関西に移ったと同時に、公家と武家は同じ地域を根拠地とするようになりました。これが義満の時代にまで下ると、公家と武家の違いは非常にあいまいなものとなっていきます。

 1358年、尊氏の子・足利義詮が2代将軍に就任した年に、義満は義詮の子として京都で生まれました。当時は南北朝の内乱が激しさを増しており、収まる気配がありませんでした。

 そんな中、1368年に父・義詮の急死により、義満は室町幕府3代将軍へと就任しました。しかし、義満はまだ10歳になったばかりで、政治を行えなかったので、足利氏の一族の細川頼之が将軍を補佐する管領という職について、義満を後見することになりました。

 頼之は義満を盛り立て、幕府の権威を高めることで政治を安定させようと力を尽くしました。南北朝の統一に向けても努力し、南朝の中心人物だった楠木正成の3男・正儀を味方につけ、さらに九州探題には北朝方の今川了俊を任命して九州の南朝方をおさえるなど、積極的に統一をおしすすめました。

 しかし、頼之が権力を強めるにつれ、有力守護たちのなかには、頼之に反発する者が増えてきました。特に同じ足利氏一族の斯波義将や土岐頼康らは、頼之をしりぞけようとする動きが高まりました。

 したがって、1379年、21歳になった義満は頼之を管領からはずし、斯波義将を新たな管領としました。これをきっかけに、幕府では義満の指導力が強まっていきます。

 頼之が追放された前年の1378年、義満は京都の室町に豪華な将軍の邸宅を建てました。足利尊氏が開いた幕府を室町幕府とよぶのは、この地名によります。義満は、諸国の守護たちに花を持ってこさせ、どれが一番美しい花かを競わせたと言われています。そのため室町邸の庭は、四季折々の花で溢れ、いつしか「花の御所」ともよばれるようになりました。

 この将軍邸は天皇の御所(内裏)のすぐ近くにあり、それを超える規模でした。義満は、朝廷の権威が弱まっているのにつけこんで、朝廷が持つ権限を次々と幕府の手に移しました。幕府はすでに土地争いなどの裁判権を朝廷から取り上げていましたが、寺社のつくりかえなどのために全国から臨時に税を取り立てる権限なども、朝廷にかわって持つようになりました。また、市中の商売に税をかける権限などを奪い取り、京都市中をおさめる権限も強めました。

 こうした攻勢をかけながら、義満は朝廷の高い官位につき、朝廷の人事にまで介入して、武家だけでなく、公家の支配者にもなっていきました。

 

 つづいて義満は地方の状況に気をくばり、1385年から、さかんに全国を旅してまわるようになります。まず、奈良の東大寺興福寺に詣でたのが始まりでした。

 東は東海道を下って富士山を眺める。西は瀬戸内海を通って厳島神社広島県廿日市市)に詣でる。北は気比神宮福井県敦賀市)を詣でる。南は高野山和歌山県高野町)を詣でる。

 義満の狙いは、地方に大きな勢力をもつ南朝方の寺社や守護たちに将軍の権威を示し、何とか北朝側に鞍替えさせることでした。

 さらに、幕府の権威をたもつためには、有力守護を統制しなければならないと考えた義満は、南北朝の内乱のなかで勢いを強めてきた大名の勢力を削り取る政策を進めました。

 まず、1390年、美濃(岐阜県南部)など3か国の守護であった土岐氏の内紛を理由(利用)として、土岐氏の2か国分の守護職を取り上げました(土岐氏の乱)。

 翌1391年には、山陰地方を中心に11か国の守護職をもっていた山名氏も、やはり内紛を利用して守護職を3か国分にまで削ってしまいました(明徳の乱)。

 山名氏が衰えたのち、大内氏は義満の援助で力を持つようになりました。中国地方西部を中心に6か国の守護をかねるようになりましたが、その大内氏も、1399年、義満に反乱してやぶれ、勢力を失います(応永の乱)。

 明徳の乱のあと、大内義弘は足利義満から紀伊和歌山県三重県南部)・和泉(大阪府南西部)両国の守護職を与えられました。義満は、かつて南朝方に属したことのある義弘を仲立ちにして南朝との交渉に乗り出しました。南朝方では、後村上天皇のあとを継いだ長慶天皇が抗戦を続けていましたが、もはや南朝方に味方する武士は数少なく、南朝方としても、これ以上抗争を続けるのは得策ではないとして、弟の後亀山天皇にかわってからは和平の道が検討されるようになりました。

 こうして南北両陣営の和平交渉が始まり、それは1392年にようやく合意に達しました。合意の内容は、南朝後亀山天皇北朝後小松天皇皇位の証(あかし)である三種の神器を渡し、以後、北朝系と南朝系で交互に天皇を出すというものでした。

 合意にしたがって後亀山天皇は吉野(奈良県吉野町)から京都に帰り、三種の神器後小松天皇に渡されました。ここに南北朝は、60年の長い戦いを経て合一されました。

 しかし、この南北朝合一は、南朝にとっては完全な敗北でした。出家して法皇となった後亀山天皇は、合一のときの約束にしたがって、次の皇太子が南朝系から出ると思っていたが、どうやらその約束は守られそうにないことが分かってしまいました。武家の棟梁である義満は、南朝方がたいした武力を持っていないことにつけ込んだデタラメだったのです。

 したがって、後亀山天皇は京都を抜け出し、吉野に帰ってしまい、皇位継承の約束は子孫たちにたくされました。その後、南朝方の残党が幾度か反乱を起こすも、大した成果は上げられず、結局は北朝側(持明院統)が皇位継承していくのでした。

 以上、卑怯な手口とはいえ、南北朝の統一を達成したというのは、義満の大きな功績といえるでしょう。義満は武家勢力に対しても、公家勢力に対しても極めて高圧的な態度で政治を行ったのでした。身分も気位も高い義満に対し、武力のない公家は恐れおののき、それはネズミがネコを恐れるかの如くでした。

義満の文化的な功績は、北山文化の創造でしょう。それに代表される金閣鹿苑寺)は日本が世界に誇る歴史的建造物の象徴であり、世界文化遺産にも登録されています。経済的な功績は、それまで国交が断絶していた明(中国)と国交を回復し、関税のかからない日明貿易を開始したことです。

 1394年、義満は将軍職を子の義持に譲るも、それは形だけのもので、将軍職の実権は譲りませんでした。そこ後、義満は太政大臣になりました。太政大臣とは公家の最高位ですが、これで義満は武家だけでなく、公家の頂点に立ちました。これは平清盛の前例を踏まえたものでしたが、さらに清盛にならって、翌1395年、出家しました。

出家後の義満は法皇のように振る舞い、院政を真似た政治を行うようになります。義満が政治を行う役所(政庁)としてつくられたのが、1397年から京都の北山に造営を始めた金閣を中心とする豪華な山荘でした。金閣は、三階建ての臨済宗の寺院ですが、平安時代藤原道長の屋敷を連想させるような広大な庭の中に、一層は国風文化以来の寝殿造で、三層は禅宗様という、まさに公家と武家が融合したような義満の身分にふさわしい建物です。以後、義満はここで政務を執るようになります。

義満の経済的な功績は、それまで国交が断絶していた明(中国)と国交を回復し、関税のかからない日明貿易を開始したことです。これによって室町幕府の財政基盤は盤石なものになりました。しかし、それは義満が明から日本国王冊封されたうえで、寧波(にんぽー)への入港許可証(勘合)を与えられた屈辱的な条件のうえに成り立っていました。

 

 

こうして、様々な功績を残し、武家の最高位であり、公家の最高位にもなった義満は、遂に天皇になろうという野心を抱きました。

しかし、征夷大将軍も、太政大臣も、天皇によって任命されるものです。したがって、義満の立場では天皇はありえません。

そこで、義満が抱いたのは、自分の子を天皇にして、自らは太上天皇天皇の父)になろうという野心でした。

義満は、4代将軍・義持の弟である義嗣を次の天皇にしようと、着々と工作を進めました。容姿端麗な義嗣は、義満から溺愛され、いつしか若宮(幼少の皇子)と呼ばれるようになり、このまま進んでいれば、皇位後小松天皇から義嗣に譲られていてもおかしくない情勢でした。

しかし、ここで不思議なことが起こりました。義嗣が親王と同等の儀式を行って元服した翌日頃から義満は急に咳き込み、発病したのです。

一度は回復したものの、その2、3日後に病状が急変し、翌日に亡くなりました。享年51歳。当時の基準でもそれほど高齢ではない。

日本人としては頂点に登りつめた義満の栄華は、自分の息子を天皇にしようとしたことで、はかなく崩れ去った。偶然にしては、あまりに唐突で、もちろん暗殺説もありますが、真相は現在もわかっていません。

いずれにせよ、義満が急死したため、天皇家と血のつながりのない子供が皇位につくという前代未聞の企ては、あと一歩のところで実現せずに終わりました。

代々、公家とは天皇に奉仕する存在です。それが天皇以外の権力者に仕えるとなれば、非常事態となります。武家の棟梁でしかない義満が、公家を威圧し、こき使いだしたときこそ、それは鎌倉幕府室町幕府の一線を画す大事件となりました。

義満が尊敬した平清盛が熱病で死んだのが天罰といわれているくらいですが、義満にも同様の天罰が下ったとみるのが妥当なのでしょうか。

 

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。