【南北朝文化】動乱期の文学作品をわかりやすく
こんにちは。本宮 貴大です。
今回は「【南北朝文化】動乱期の文学作品をわかりやすく」というテーマでお送りします。
南北朝期の著書で覚えておきたい作品は以下の通りです。
【文学作品】
『増鏡』
『梅松論』*北朝正統論
『太平記』
『曽我物語』
【学問・思想】
『職原抄』(北畠親房)
以下、それぞれ解説していきます。
南北朝期の著作物には動乱の時代を背景に、様々な歴史書や軍記物語が多いことが挙げられます。
南北朝期の文学では、北畠親房が南朝正統論を主張した歴史書『神皇正統記』、または後鳥羽上皇と承久の乱以後の歴史を扱った『増鏡』などがあります。軍記物としては、南朝正統論に対して北朝正統論の立場をとった『梅松論』、そして南北朝の内乱を扱った『太平記』があります。
まず、南北朝文化とは、その名通り、南朝と北朝という天皇が2人いる未だかつてない不安定な情勢から芽生えた文化です。
北条鎌倉幕府の滅亡後、足利尊氏は北朝(持明院統)を擁護し、征夷大将軍に任命され、京都に室町幕府を開きました。
一方、大覚寺統の後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ、南朝として君臨しました。南朝方は天皇の地位のシンボルである三種の神器(剣・鏡・玉)を持っており、北朝の天皇を認めませんでした。しかし、軍事的には室町幕府が立てた北朝が有利でした。
ここに南北朝が互いに政権獲得をめぐって争う南北朝時代が始まりました。
しかし、当初、優勢だった北朝方に内部分裂が起きたことで、南北朝の対立は、長期化・拡大化していきました。
そんな南北両朝が争うなかで、歴史に答えを求め、それぞれの血筋の正統性を論じる歴史書が書かれました。
その代表作が南朝側からその正統性を主張した北畠親房による『神皇正統記』です。『神皇正統記』は親房が1339年に常陸国の小田城で後村上天皇のために著した歴史書で、伊勢神道の影響を受け、「大日本は神国なり」と神国思想に立ち、正直・慈悲・知恵を表す三種の神器によって天皇の正統性がもたらされるとし、ゆえに南朝こそが正統であるとした。親房は、ほかに官職の起源を述べた『職原抄(しょくげんしょう)』の著書があり、後醍醐天皇にも『建武年中行事』などの有職故実の著書があります。
他にも、南朝方の立場から後鳥羽上皇による承久の乱以後の歴史を扱った『増鏡』という歴史書もあります。『増鏡』は、平安時代末期の『大鏡』、鎌倉時代の『今鏡』、『水鏡』などと合わせた「四鏡」の最後となります。
南朝正統論に対して北朝正統論を主張した著書として、足利氏の立場から戦乱の動きを叙述した『梅松論』や、今川了俊の著した『難太平記』があります。
また、南北両朝が戦乱を繰り返すなかで軍記物がさかんに書かれるようになります。その代表格といえるのが『太平記』(作者不詳)であり、バサラの武士をはじめ動乱期を生きた人々の強く、たくましく生きる様が書かれている。
南北朝の内乱の全体像をえがいた作品が、軍記物語の『太平記』です。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために立ち上がってからの約50年間の出来事が、40巻にまとめらています。「太平」とは平和の意味ですが、平和を望みながらもなかなか平和になれない、そうした行方の定まらない時代を生きる人々巣型が同時代の歴史として描かれています。作者は明らかではなく、複数の人がかかわったとみられています。
『平家物語』が琵琶法師によってまったように、『太平記』も、物語僧と呼ばれる僧や、太平記読みとよばれる講釈師によって語られ、のちの世に広まりました。昔から『太平記』の作者とされてきた小島法師は、そうした物語僧のひとりで、語り物の名人だったとみられています。『太平記』は軍記物語ですが、文学作品としての性格も強く、脚色されている部分も多いです。ですが、当時の出来事を知るうえで欠かせない貴重な史料となっています。
そして、鎌倉時代のはじめに起こった曽我兄弟の仇討ち事件を物語にした『曽我物語』も南北朝期の著書になります。『平家物語』が琵琶法師による語り物であったように、『曽我物語』も瞽女(ごぜ)とよばれる盲目の女性の旅芸人によって語られたものでした。
つづく。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
いっきに学び直す 日本史 古代・中世・近世【教養編】