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【平家物語】源平合戦をわかりやすく【琵琶法師】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【平家物語源平合戦をわかりやすく【琵琶法師】」というテーマでお伝えしたいと思います。

 

貴族の世から武士の世へとうつりかわっていくことを具体的に示したのは、保元の乱平治の乱源平合戦承久の乱の4つの戦乱でした。それぞれの戦いのありさまをつづった物語が、『保元物語』、『平治物語』、『平家物語』、『承久記』という軍記物語です。

 

これらの物語は、13世紀前半~末頃に出来上がっていったのではないかと考えられています。

今回は、その中の『平家物語』についてその特徴や文学的価値、そして内容として源平合戦をみていこうと思います。

平家物語』は、琵琶法師とよばれる盲目で僧のすがたをした旅芸人が、琵琶のひき語りをするための台本として書かれたという話が鎌倉時代の末期に書かれた徒然草にのっています。それによると、『平家物語』は下級貴族の信濃前司行長があらわし、琵琶法師に語らせたのが始まりだといいます。合戦のようすについては、琵琶法師が東国の武士から聞き取りをしたとも書かれています。

琵琶法師は生仏という名の僧ですが、4本の弦を持つ琵琶を持っていることからその名がつきました。子法師という弟子を連れ、自分の身の回りの世話をしてもらいました。

現在広く知られている『平家物語』は12巻からなり、源氏と平氏の戦いを通して、おごる平氏もほろんでいく姿を描いています。軍記物語といわれたように、合戦の場面がくわしく描かれていますが、冒頭には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる有名な序文があり、どんな勢いのある者でも、やがてほろびるという無常観が語られています。

しかし、当時の人々は、文字で『平家物語』を読んだのではありません。琵琶法師が語る物語に耳を傾けたのでした。

 

平家物語に限らず、中世の文学を理解するうえで重要なキーワードとなるのが、「無常観」です。「無常観」とは、あらゆるものが変化して、少しも元のまま留まることがない(=無常)という考え方(=観)のこと。

平家物語』は約70年に及ぶ平家の興亡と源平の合戦の様子を描いた軍記物語である。この「無常観」こそ、『平家物語』のテーマそのものといってよい。栄華を極めた平家が滅び、さらに一度は勝者となった木曽義仲源義経も、没落していく。それはこの世の定めそのものなのでしょう。

まず1巻の冒頭で、物語全体の基調となる無常観を提示しています。

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 

対句を使い、世の中が「無常」であるということを繰り返しています。作者は平家に同情的な立場で物語をすすめているが、同時に源氏の活躍も生き生きと描き、貴族から武士への時代の中心が移っていく激動の時代であることを印象づけています。清盛の死を境として、前半と後半に分けることができ、源平両陣営の武士たちの思い、登場人物個々のエピソード、戦いに巻き込まれた女性たちの悲しみなどが語られています。

それでは、『平家物語』の大まかな内容を現代語で見てみましょう。

前半(1~6巻)

前半部分は、平清盛を中心にした平家一門の出世と栄華が描かれています。平家一門は桓武天皇の血を引く高望王が、平(たいら)の姓を得て、臣下になったことに始まります。平家は忠盛の代に鳥羽上皇から昇殿を許された後、保元の乱平治の乱でも平家が勝利し、平家一門は瞬く間に出世していきます。

忠盛の子・清盛は太政大臣にまで昇進し、娘を天皇中宮とします。

しかし、平家が権力を強めると同時に反発も大きく、打倒平家の動きも起こるようになります。清盛と後白河上皇との対立が強まる中、打倒平家の兵を挙げながらも討ち死にした以仁王の命令を受け取り、源頼朝木曽義仲らが挙兵する。

平家は数万の大軍を東国に送るものの、富士川の戦いにて水鳥の羽音に驚いて敗走し、その対応に追われるなかで、清盛は熱病で死亡しました。

後半(7~12巻)

挙兵した源(木曽)義仲が、倶利伽羅峠の戦い篠原の戦いで平家を破ると、平家一門は安徳天皇を連れて京から福原(神戸)へ去り、さらに西国へと落ちていきます。

平家を破った義仲は京に入るものの、その軍兵たちの乱暴な振る舞いが原因で都の人々に嫌われてしまいます。さらに後白河上皇天皇にも無礼な態度をとったため、上皇は伊豆にいる源頼朝に義仲追討の軍を送るよう命じました。これを受けた頼朝は弟の義経らを京に派遣し、義経軍が義仲の軍を破ると、義仲は粟津で討ち死となりました。この義仲の栄光からの転落と死は、『平家物語』の主題である無常観や盛者必衰の理そのもといえるでしょう。

西国に落ちのびた平家は何とか態勢を立て直し、一ノ谷(兵庫県神戸市)に陣を構えました。これに対して義経軍は平家の陣の背後にある絶壁を駆け下りるという奇襲で平家軍を打ち破りました。

平家の人々は舟に乗って海上に逃れたが、平敦盛など多くの名将が討ち死にとなりました。

熊谷次郎直実が首を取ろうとした武者(平敦盛)は、自分の子供ほどの若者でした。見逃そうと考えたが、味方の軍勢が近づいてきます。ここで逃しても彼は結局、討ち取られてしまいます。それならば自分が討ち取り、弔おうと考え、泣きながら若武者の首を斬りました。(敦盛の最期)

一ノ谷で敗北した平家は、屋島香川県高松市)に移るが、そこでも義経の奇襲を受けて敗北してしまいます。

敗戦が続くうちに西国の武士たちも平家から離反するようになり、もはや平家が入ることが出来る港はなくなってしまいました。

平家一門は壇ノ浦(山口県下関市)まで追い詰められ、最後の戦いに挑むものの敗れ、ついに滅亡しました。

清盛の妻と、その子(安徳天皇)は三種の神器とともに入水し、多くの女房や武者も後を追いました。建礼門院(徳子、清盛の娘)や平宗盛らは捕らえられました。宗盛ら後に処刑されました。

 

平家滅亡という武功を挙げた義経でしたが、頼朝と対立するようになり、義経は都を追われ、全国に義経追討の命令が下され、追われる身とました。平家の残党もその後も厳しく追われ、出家していた清盛の曾孫も鎌倉幕府の命令で斬首となりました。こうして平家の血筋は絶えました。

 

灌頂の巻

平家物語』の最後に添えられたのが、健礼門院のその後を語る「灌頂の巻」です。壇ノ浦で入水したものの助けられた建礼門院は出家し、平家一門のために祈る日々を送りました。ある日、後白河天皇が訪れ、対面した女院は、波乱に満ちた生涯や平家一門の栄華と滅亡をしみじみと語り、冒頭と対応した無常の様子が描かれています。

 

今回は、平家物語について見てみました。平家物語の文学的価値とは全編を通じて仏教用語である無常観で一貫されており、それを基調として中世に登場した武士の世界を、貴族の世界と対照させつつ描いていることにあるでしょう。源平合戦を歴史的事実として描写するだけでなく、そこで生きた人々の喜怒哀楽を描き、人間味溢れる物語として完成されている。これは能や狂言、歌舞伎、御伽草子浮世草子などにも大きな影響を与えています。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社 

中学 見て学ぶ 国語     受験研究社