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【文学史】鎌倉時代の和歌集をわかりやすく

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【文学史鎌倉時代の和歌集をわかりやすく」というお話です。

 

鎌倉時代の和歌集で覚えておくべきは、以下の作品でしょう。

新古今和歌集・・・・藤原定家らが編集

山家集・・・・西行

金槐和歌集・・・・源実朝

では、1つずつ見ていきましょう。

 

新古今和歌集

 鎌倉時代は、貴族の世から武士の世へと時代がうつろうとする中、貴族たちは文芸や芸術をさかんにすることで自分たちの存在観を高めようとしました。

 承久の乱を起こした後鳥羽上皇は、さまざまな才能の持ち主といわれ、天皇の位をゆずって上皇になったころから和歌に関心をもちはじめました。後鳥羽上皇は10世紀前半の醍醐天皇村上天皇の時代を理想としていましたが、醍醐天皇の時代にはじめての勅撰和歌集天皇上皇法皇の命によって編纂された和歌集)として『古今和歌集』が編まれました。そこで上皇は、これを模範としてみずからも勅撰和歌集も編もうと決意しました。

 1201年、上皇は御所の中に和歌の選定をおこなう和歌所を設け、和歌の選定にあたる寄人を定めました。そして、多くの貴族、女房、僧たちに和歌を詠ませました。そのうえで、藤原定家ら5人の歌人に和歌集の編纂を命じました。上皇は編纂を命じただけではなく、みずから和歌を詠み、和歌の選定にあたりました。上皇をはじめとする歌人たちには、『古今和歌集』の歌風を受け継ぎながらも、新しい歌風の確立を目指そうという意気込みがありました。こうして1205年に完成したのが『新古今和歌集』です。その後も後鳥羽上皇が修正や和歌の削除・追加を行い、最終的には1210年以降に完成したと考えられています。8番目の勅撰和歌集。『新古今和歌集』は明治時代まで及んでいます。

 内容としては、約2000首で短歌のみを20巻に収録しています。巻数や書名から『古今和歌集』の流れを受け継ぎ、新しい方向性も打ち出すという意味を読む取ることができます。

 代表的な歌人は、西行藤原俊成・定家父子、寂蓮、式子内親王慈円後鳥羽上皇などです。

 

 西行は、もともとは佐藤義清(のりきよ)という武士で後鳥羽上皇に仕えていました。しかし、23歳のとき突然出家して僧となり、諸国を修行しながら、多くの歌を詠む人生を送りました。西行後鳥羽上皇から「天性の歌の名人」と絶賛され、『新古今和歌集』にもっとも多くの歌が選ばれました。西行は江戸時代の俳人松尾芭蕉などに大きな影響を与えました。

心なき 身にもあはれは しられけり

鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮れ     西行

現代語訳・・・非情となって出家した私のような身分にも、この情景にはしみじみと心うたれるなぁ。鴫が飛び立つ沢のほとりの秋の夕暮れどきは

 

 藤原定家後鳥羽上皇から「歌の上手」といわれ、『新古今和歌集』の撰者に任命されました。定家は父・俊成のもとで歌づくりにはげみ、父が基礎を築いた和歌の家柄を確立させ、それを子孫に継承させました。定家の歌には、『源氏物語』などを背景にしてよんだ歌や、先人が詠んだ歌をふまえてつくった本歌取りとよばれる歌が多くみられます。

本歌取り・・・世に知られている古歌を素材として取り込んだうえで、新しく歌をつくること。古歌のイメージをまるまる新歌に取り込める。

 定家はその他、『百人一首』をまとめました。日記『明月記』は重要史料とされています。

見わたせば 花も紅葉も なかりけり

浦の苫屋の 秋の夕暮           藤原定家

現代語訳・・・見わたすと、春の花も秋の紅葉も何ひとつないなぁ。そまつな小屋があるだけの海辺の秋の夕暮どきは

 

 藤原俊成は定家の父ですが、当時の歌壇の第一人者として多くの歌人を育てました。俊成・定家父子は、幽玄・有心の美意識を唱え、それが歌にも表れています。それらは絵画的、幻想的、観念的な点が特徴です。

幽玄・・・余情のある静かな美しさ。中古の「あわれ」などさまざまな美を調和させた美しさ。

有心・・・優雅で余韻ある情趣を詠み込み、複雑で最高の美を追求すること。

 

昔思ふ 草のいほりの 夜の雨に

涙な添へそ 山ほととぎす       藤原俊成

現代語訳・・・(しみじみと)昔のことを思い出している粗末な住まいに降る夜の雨に、(これ以上鳴いて)涙を添えてくれるな、山ほととぎすよ。

 

寂蓮は、出家前の名は藤原定長で、藤原俊成の養子です。

寂しさは その色としも なかりけり

槙立つ山の 秋の夕暮        寂蓮

現代語訳・・・(この)寂しさは特にどの色から(感じる)というわけでもないのだなぁ。杉やヒノキの茂る山の秋の夕暮れよ。

 

 式子内親王は、後白河上皇の皇女で、鎌倉時代初期の女流歌人の第一人者。繊細、哀切な表現を得意としています。

山深み 春とも知らぬ 松の戸に

たえがえかかる 雪の玉水       式子内親王

現代語訳・・・山奥なので、春が来たともわからない(山の家の粗末な)松の戸に、とぎれとぎれに落ちかかる(日光を受けて輝く)玉のような雪解け水よ。

 

 そして、後鳥羽上皇は第82代天皇新古今和歌集を完成後、1221年に承久の乱を起こすも幕府軍に惨敗し、隠岐に流されました。

見渡せば 山もとかすむ 水無瀬川

夕べは秋と なに思ひけむ     後鳥羽

現代語訳・・・見渡すと、山のふもとにかすんで、水無瀬川が流れている。(この景色を見ると)夕暮れ(の情趣)は秋(が優れている)とどうして思ったのだろうか(春の夕暮れもすばらしい)。

 

山家集

 12世紀末ごろ、西行は自身の和歌を私家集としてまとめました。それが山家集で、西行の和歌およそ1560首から成ります。自然を愛する心やその感動を平明かつ自由に詠んだ和歌が多い。素朴で技巧的でない和歌が多いのも特徴です。

願はくは 花の下にて 春死なむ

その如月の 望月のころ

現代語訳・・・願うことは、咲く桜の花の下で春(の盛り)に死にたい(ということだ)。その二月一五日の頃に。

 西行は東北や四国まで旅をしながら和歌をつくりました。東北地方へ向かう途中に寄った鎌倉では、源頼朝と会っています。頼朝からお土産として銀でできた高価な猫の置物をもらったが、もらったすぐ後に、近くで遊んでいた子供にあげたという。出家した僧としては理想的な行為でしょう。

 

金槐和歌集

 鎌倉幕府3代将軍の源実朝は、後鳥羽上皇にならって和歌をはじめました。『新古今和歌集』は定家を通じて実朝に送られました。実朝は定家の指導を受けながら、格調高い独自の歌の世界を開き、詠んだ歌を私歌集として『金槐和歌集』にまとめました。

 金槐和歌集は663首から成り、「金塊」の「金」は鎌倉を、「槐」は「大臣」を表し、「鎌倉の大臣」という意味です。明治時代になって正岡子規が高く評価しました。

物言はぬ 四方のけだもの すらだにも

あはれなるかな 親の子を思ふ

現代語訳・・・言葉を話さないあちらこちらの獣さえも、しみじみと心打たれることだなぁ。親が子供のことを思ふのは。

時により 過ぐれば民の 嘆きなり

八大竜王 雨やめたまへ

現代語訳・・・時によって祈願を受けて降らせる雨が度を過ぎることがあり、そうなるとかえって人々の嘆きとなってしまう。雨をつかさどる八大竜王よ。雨をやめたまえ。

 実朝は「暗殺された将軍」です。実朝は右大臣の就任祝いを行っていた鎌倉の鶴岡八幡宮で斬りつけられ、命を落としました。斬りつけたのは甥の公暁(実朝の兄の頼家の子)でした。公暁も追っ手に殺され、源氏の直系は断絶しました。事件当日に就任祝いへの参加を取りやめた北条義時などが黒幕ともいわれています。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社 

中学 見て学ぶ 国語     受験研究社