【源平合戦ドラマ1】なぜ源頼朝は挙兵したのか【源頼朝】
こんにちは。本宮 貴大です。
今回のテーマは「【源平合戦ドラマ1】なぜ源頼朝は挙兵したのか【源頼朝】」というお話です。
1180年から1185年にわたって続いた源平の争乱は、その元号をとって治承・寿永の乱とも言います。
今回は、そんな5年にもおよぶ源平争乱は、いかにはじまり、いかに終わり、そこにはどのような人間ドラマがあったのかを見ていたいと思います。
古来より関東人は朝廷からの独立を願っていました。そんな中、平氏政権が院や朝廷、貴族、地方武士、寺院などあらゆる勢力から反感を買い、孤立していました。そのスキを狙って源頼朝は平氏政権を倒し、武士による武士のための政府(幕府)を立てるため、挙兵しました。
12世紀半ば、院政に代わって武士出身である平氏が政権を握ったことで、国司(受領)からの厳しい収奪から逃れられると全国の武士や寺社勢力は大いに期待をしていました。
しかし、平氏政権の中心である平清盛は知行国主としての平氏一門を受領に任命し、独裁体制を強めたため、武士達は大きく失望していきました。
また、平氏一門が朝廷内で高位高官を独占し、領地も日本全体の半分を所有するようになると、院も朝廷も平氏政権に強い警戒心を持つようになりました。
こうして平氏は、院や朝廷、武士や大寺社などのあらゆる勢力から反感を買い、次第に孤立していきました。
そんな清盛は、自分の娘を高倉天皇に嫁がせ、その2人の間に生まれたわずか3歳の子をすぐに皇太子とし、天皇の外戚の地位を確立しました。これによって皇位継承が絶望的となった高倉天皇の兄・以仁王は、1180年4月に諸国の源氏の武士に「平氏討伐」をよびかける文書をひそかに出していました。
これを受けた源頼政は以仁王をかつぎ上げ、京都で平氏打倒の兵を挙げました。頼政は、源満仲の長男で摂津に土着した源頼光の子孫であり、平治の乱のとき、平清盛を助け、その勝利に貢献していました。その後、西国で平氏が全盛となる中、京都で唯一、勢力を保っていた源氏でした。
しかし、同年5月に以仁王と頼政の挙兵は、事前の密告によって清盛の耳に入りました。清盛は追っ手を以仁王の屋敷に差し向けましたが、以仁王はすでに園城寺に逃れた後でした。しかし、園城寺では十分な味方を得ることが出来なかったため、以仁王と頼政は奈良の興福寺(南都)に向かおうとしましたが、その途中、宇治川平等院付近で平氏の追撃に遭い、両者とも敗死しました(宇治川の戦い)。
以仁王の反乱をおさめた清盛は、出家したのちに自分の別荘のある福原(兵庫県神戸市)に、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇らをつれ、都を移すことで、反平氏勢力を抑えようとしました。しかし、この強硬手段は、さらに多くの中央貴族たちの反感を買いました。
しかし、以仁王が発した平氏討伐の令旨は諸国の源氏一族に伝えられ、それに応えた動きが各地で起こりました。
源行家は、平治の乱で兄・源義朝を失っており、平氏には強い恨みを持っていました。行家は、同じく平治の乱のあと、伊豆国(静岡県伊豆市)に流されていた義朝の三男・源頼朝のもとを訪れ、以仁王による平氏討伐の旨を伝えました。
それは1180年4月末のことでしたが、頼朝が伊豆に流されてから20年が経っており、頼朝は34歳で、伊豆国の上級役人になっており、地元の武士である北条時政の娘・北条政子を妻としていました。北条氏は元来、平家であり、時政は頼朝の監視を命じられていました。しかし、この時は婿として自分の館に招き入れていたのです。
そんな中、京都にいる三善康信から頼朝に手紙が届きました。
「以仁王の令旨の件が京都で露呈し、平氏が挙兵の準備をしている。頼朝殿は、奥州の藤原氏を頼ってお逃げください。」
しかし、頼朝は逃げることよりも戦うことを選びました。
古来より、関東人は朝廷の重税に苦しんできました。それが今では時代を動かせるだけの力を持った武士という新たな身分が誕生し、関東に武士による武士のための理想国家の建設も夢ではなくなった。
そんな関東人の理想を実現すべく、関東武士団の棟梁として平氏を打倒できるのは、皇族の血を引く清和天皇の生き残りである頼朝だけでした。かくして頼朝は挙兵を決意しました。
頼朝は以仁王の呼びかけを受けたものの、すぐに動こうとはしませんでした。そんな中、以仁王と頼政の挙兵が失敗したという知らせ入り、清盛が全国の源氏を討伐するべく準備をすすめていることが頼朝の耳に入りました。
これを聞いた頼朝は、ついに挙兵を決意し、準備を進めました。頼朝の最初の敵は、平氏一族で伊豆国の目代をつとめる山木兼隆でした。
同年8月17日の夜、頼朝軍の味方である北条時政らが、兼隆の館を襲って兼隆を討ち取りました。しかし、決行が急だったため、頼朝軍は十分な仲間を集めきれませんでした。
すぐ近くで助けを期待できるのは、相模国(神奈川県)の三浦半島に大きな勢力を持つ三浦氏でした。頼朝軍は三浦氏と合流するために相模国の石橋山に向かいました。すると、平氏方の大庭景親らの待ち伏せに遭い、頼朝軍は惨敗しました(石橋山の戦い)。
ここで頼朝は有名な命拾いをします。戦に負けて大きな木の後ろに隠れていたところ、敵の梶原景時に見つかってしまうも、景時は頼朝を見逃したのです。その後、頼朝は真鶴半島から舟に乗り込み、安房国(千葉県南部)に逃れました。
安房国に着いた頼朝は、再起を図ります。頼朝が関東一帯の武士に結集を呼び掛けると、上総国(千葉県中部)の上総介広常、下総国(千葉県北部)の千葉常胤らが大軍を率いて駆けつけてきました。
「頼朝殿、遅ればせながら、参陣いたします。」
さぞかし頼朝が有難がるだろうと思っていた広常らは、逆に頼朝から怒鳴られました。
「なぜ今頃来るのか。ここに来るまで多くの同胞を失い、私自身も命拾いをしている。」
石橋山の大敗で逃げてきたにも関わらず、大軍を連れてきた大将を叱りつけるという毅然とした態度に武家の棟梁としての資質と自然な威厳がうかがえた。
「さすがだ。頼朝こそが、源氏の棟梁である。これは大物だ。」
広常らは感じ入り、頼朝に忠誠を誓うようになりました。
そして頼朝軍が武蔵国を経て、相模国の鎌倉に入ったときには、大軍に膨れあがっていました。鎌倉は、頼朝の先祖で、前九年合戦で活躍した源頼義が八幡宮を祀って以来、東国における源氏の拠点でした。
一方、頼朝が東国武士を結集して勢力を回復させたことが福原の清盛の耳にも入りました。清盛は、かつて命を救ってやった頼朝が、その恩を仇で返していたことに強い怒りと憎しみを覚えました。
「必ずや、頼朝の首を持ってこい。」
そう言って清盛は、9月22日、孫の平維盛を大将とする5千騎余りの軍を福原から東国に発しました。維盛軍は、進軍の途中で兵を募り、駿河国に着いたときには、およそ5万の軍勢となっていました。
一方の頼朝は、これを迎え討つべく、20万の大軍を率いて鎌倉を発しました。これと同時に源氏一族である甲斐国の武田氏と同盟を結びました。そして、駿河国の黄瀬川まで来たとき、かつて鞍馬寺を脱出し、奥州の藤原秀衡にかくまわれていた源義経が駆けつけ、有名な兄弟の対面をしました。
かくして頼朝率いる20万の大軍と、平氏の5万の軍勢は富士川で対峙しました。数では頼朝軍が有利でしたが、この合戦は意外なカタチで決着が着きました。
夜中、頼朝軍は平氏軍の様子を見ようと偵察部隊として武田軍を平氏の背後から迫らせたところ、富士川にとまっていた水鳥が一斉に飛び立った。その羽音を聞いた平氏軍は頼朝軍が夜襲を仕掛けてきたものと勘違いして、大混乱に陥り、武器も食料も放り出したまま、戦わずに京都に逃げ帰ってしまいました(富士川の戦い)。
一方、逃げ帰った平氏軍は、その帰途で各地の反平氏の地方武士に追撃され、維盛はわずか10騎のみを従えて、京都に戻ってきたことに清盛は激怒した。
このときの敗戦が平家の栄華の夢の醒めはじめでした。
そして、いつしか以下のような言葉が流行り始めました。
「おごる平家は久しからず」
一方、頼朝は逃げかえる平氏軍を追わずに、富士川から兵を引き返し、背後を脅かしていた常陸国の佐竹氏を滅ぼしました(佐竹攻め)。
こうして、頼朝は、伊豆・駿河・遠江(静岡県)の諸国と関東地方のほとんどを支配するようになりました。
源平合戦はつづきます・・・・。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
参考文献
いっきに学びなおす日本史古代・中世・近世【教養編】 東洋経済新報社
早わかり 日本史 河合敦=著 日本実業出版社
よく分かる!読む年表 日本の歴史 渡部昇一=著 WAC