日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【平氏政権】平清盛のスピード出世の秘密とは?【平清盛】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【平氏政権】平清盛のスピード出世の秘密とは?【平清盛】」というお話です。

今回は、平氏が朝廷内で台頭し、その栄華を見ていきながら、平清盛のスピード出世の秘密について見ていきたいとおもいます。

 

 平氏が朝廷内で台頭するきっかけとなったのは、清盛の祖父・正盛の時代にまで遡ります。

正盛は白河上皇に領地を寄進し、院の近臣に取り立てられました。やがて正盛は追捕使として武名を上げ、出世していきました。

さらに、正盛の子・忠盛も海賊征伐で武名を上げたのをきっかけに、白河上皇の側近として迎え入れられた。

忠盛はその後、鳥羽上皇にも寵愛され、それまでは高級貴族しかなれなかった受領(国司)に任命され、美作・播磨などの国司を歴任するうちに莫大な富を蓄積することに成功しました。

 このような祖父・父の遺産を引き継いだ清盛は、保元の乱平治の乱の勝利に貢献後、後白河法皇から信頼され、清盛は参議となって公卿に就任、朝廷内で政治に発言する権限を得たのでした。平清盛はその後も栄進を続け、数年後の1167年、武士としては初めての太政大臣という朝廷の最高職にまで成り上がりました。

 こうして後白河上皇のもとで実権を握った清盛は、兄弟や子供、甥や孫まで平氏一門を次々に高位高官に取り立てました。その結果は、公卿16人、殿上人30人余りに達し、朝廷の重要な役職のほとんどを平氏一門が独占する状態となりました。

この政情をみた、平氏一門の平時忠などは以下のように豪語しました。

平氏にあらずんば 人にあらず」

これは「平家の一門でないものは人ではない」という意味です。

 清盛は、武士でありながら貴族社会への強い憧れを持っていたようです。その様相はまるで藤原摂関家のごとくで、自分の娘・徳子を高倉天皇の妃とし、その後、念願の皇子(後の安徳天皇)が生まれると、すぐに皇太子にさせ、外戚として権力をふるうだけでなく、摂関家からの反感を買わないように、娘の盛子を関白・藤原基実の妻としています。

 また、全国の武士達の反感も買わないように、清盛は諸国の荘園・国衙領の地頭の任免権を獲得し、畿内や西日本の武士たちを地頭に任命することで対策を講じると同時に、平氏組織の強化を図りました。これは、後に誕生する鎌倉幕府の政府機構そのものであり、清盛は貴族政治を行いつつも、武家政治も同時に行おうとする

 

 清盛の栄華の根源は、軍事的基盤や政治的基盤だけではなく、経済的基盤にもありました。平氏一門に朝廷から与えられた知行国は30か国を超え、寄進された荘園は500カ所以上にも及びました。これは当時の日本の正統な領地の半分以上に相当すると言われています。

 また、清盛は宋(中国)との貿易に力を入れ、利益を得ようとしました。宋との国交は遣唐使停止以来、途絶えていましたが、民間の商船などは九州に来て貿易を行っていました。清盛は、これに目をつけました。

 そこで清盛は父・忠盛が瀬戸内海の海賊征伐をしたことで、瀬戸内海の航路が開かれたことに注目し、宋(中国)との貿易を神戸(福原)で始めました。これを日宋貿易といいますが、当時の神戸には奈良時代行基がつくった大輪田泊という小さな碇泊地があり、そこを大規模な港に改修し、宋と積極的な貿易を行い、莫大な富を得たのでした。

 こうして、清盛は軍事力・政治力・経済力の面で最高位となりました。

 

 それにしても、清盛の昇進スピードは異例で、武士の身分でありながら、公家の最高位である太政大臣になるまでの期間が短すぎます。なぜ清盛はスピード出世を達成できたのでしょうか。これには理由がありました。

清盛は忠盛の子ではなく、白河上皇の子だったのです。忠盛は上皇から祇園女御の妹を賜るが、そのとき彼女は白河上皇の子を身ごもっており、忠盛はそれを知りつつ、彼女をもらい受け、生まれた子(清盛)を我が子として育てたのです。

なので、貴族社会も、皇室の血を継ぐ清盛の栄進に異を唱えることが出来ませんでした。

 

 しかし、清盛率いる平氏一門が官職を独占したことで、排除された貴族たちはその反感は強いものになっていきました。高倉天皇が即位して以来、平氏を中心とした宮廷勢力がつくられてくると、後白河法皇平氏勢力に警戒心を持ち、清盛とも対立するようになりました。

 また、全国の武士たちも知行国の国守が平氏一門によって占められていることに強い不満を持ち、平氏から離反していきました。

 

 そんな中、1177年についに朝廷や院で、平氏政権に対する不満が爆発。院の近臣・藤原成親や僧の俊寛らが京都東山の鹿ケ谷で会合し、平氏打倒の計画を練るも、事前に発覚して、関係者は捕らえられ、厳罰に処せられました(鹿ケ谷事件)。

 鹿ケ谷事件後、後白河法皇平氏の対立はますます深まり、平氏は反平氏勢力を強圧するも、院も反平氏の態度を強めたため、1179年、清盛は数千人の兵を集めて上京し、後白河法皇を幽閉するというクーデターを決行し、院政を停止させました。他の院の近臣たち39人の官職も奪い、清盛は政界の主導権を握り、平氏政権を樹立しました。

 翌1180年にはわずか3歳の安徳天皇を即位させ、外戚としてその地位を確立させました。

 しかし、この強圧策は、朝廷や院、そして貴族や全国武士たちなどあらゆる旧勢力から反感を買い、その勢力は平氏打倒を掲げ、後白河法皇のもとに結集するのでした。

 こうして孤立した平氏は、各地の源氏の挙兵に始まる源平争乱に巻き込まれるのでした。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

いっきに学びなおす日本史古代・中世・近世【教養編】        東洋経済新報社

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC