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【源平合戦ドラマ2】なぜ源義仲は源頼朝に倒されたのか【源義仲】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【源平合戦ドラマ2】なぜ源義仲源頼朝に倒されたのか【源義仲】」というお話です。

 1180年から1185年にわたって続いた源平の争乱は、その元号をとって治承・寿永の乱とも言います。

 今回も、そんな5年にもおよぶ源平合戦を見ていきながら、源義仲源頼朝に倒された理由について見ていこうと思います。源氏が同じ源氏を倒した背景には、どのようなドラマがあったのでしょうか。

以仁王の令旨によって、頼朝の従兄弟・源(木曽)義仲も挙兵しました。義仲は京都から平氏一族を追い払ったのちに入京するも、義仲軍が都で盗みや乱暴を働いたことから上皇や貴族からの反発を買い、後白河法皇源頼朝に救いを求めました。これを受けた頼朝は、源範頼源義経に命じて義仲を討たせました。

 東国で挙兵したのは頼朝だけではありませんでした。以仁王の呼びかけは信濃国(長野県)の木曽にいた源義仲木曽義仲にも届いていました。義仲は頼朝のいとこにあたりますが、義仲の父・義賢はもともと関東の上野国群馬県)、武蔵国に勢力を張っていましたが、義仲が2歳のとき、鎌倉を根拠としながら武蔵国に勢力を伸ばそうとする義朝(頼朝の父)の兄・義平と争って殺されました。義仲は木曽に逃れ、乳母(母の代わりに育てる人)の夫である中原兼遠に育てられたのでした。

 義仲は頼朝の挙兵を知ると、負けずと挙兵しました。義仲は、非常に戦上手で、みるみるうちに信濃国から上野国越後国新潟県)へと勢力を広げ、頼朝と張り合う勢力になりました。

 こうして1180年から全国で起こった治承・寿永の乱源平合戦は、大きく4つの勢力に分かれて戦うこととなりました。その勢力とは、畿内・西国に力を持つ平氏、北陸一帯を平定した源義仲、東国を統一した源頼朝。そして東北に君臨する奥州藤原氏でした。

 

 平氏は、富士川の戦いで敗走して以降、急速に弱体化していきました。一方で反平氏の勢力は、より一層活発となり、情勢が危ういと考えた清盛は、福原から京都に都を戻し、子の平重衡に命じて奈良の寺院で反平氏勢力と代表であった東大寺興福寺を焼き討ちにさせました。

 こうして平氏が反撃するなか、翌1181年、高倉上皇が亡くなると、後白河上皇院政を再開しました。ついで清盛が高熱を発して死にました。清盛の身体は火のように熱く、あまりに熱いので意志の水槽に水を満たし、身体を冷やしたところ、水が湯になってしまったと伝えられています。そして死ぬ直前に「頼朝の首を墓にもってこい」と言い残して亡くなりました。

 

 清盛の死によって、平氏の勢力はさらに弱体化していき、かろうじて西進する源氏を阻む力と、東北の奥州藤原氏と結んで頼朝や義仲を背後から突く戦略もとるようになりました。

 そんな平氏の泣きっ面に蜂だったのが、このときに起きた飢饉でした。これは当時の年号から養和の飢饉と呼ばれていますが、1181年から翌年にかけて諸国は夏の日照りや秋の暴風や洪水によって大凶作となり、その飢饉は凄まじいものとなりました。京都中の街路には飢え死にとなった死体が転がり、仁和寺の僧侶が死者の供養のために額に「阿」の字を書いてまわったところ、その数は、京都の町だけで4万2300人にも及んだとされています。また、東北や関東を義仲や頼朝が抑えていたため、京都に運ばれる年貢の輸送が滞っていたことも事態をさらに悪化させました。

 

この飢饉を受けて平氏には、もはや戦える力が残っていない状態となりました。

それでも平氏は、北陸の源義仲が攻め入ってくるのを防ぎ、重要な食料供給地である北陸を得ようと、平維盛を大将とする10万の大軍を送りだしました。

 

 しかし、1183年、加賀国(石川県南部)と越中国富山県)の国境にある外波山の倶利伽羅峠で、平氏軍は義仲軍に木っ端みじんに打ち砕かれ、京都に逃げ帰りました(倶利伽羅峠の戦い)。

 この戦いにおいて義仲は、数百を超える牛の角にたいまつをつけて敵陣を奇襲したと伝えられています。

 また、このとき以仁王の遺児・北陸宮が義仲を頼って都を脱出していました。義仲は北陸宮を保護すると、以仁王源頼政の遺志を継ぐものとして戦(いくさ)の旗を立てました。

 こうして勢いにのった義仲軍は、平氏を追って京都に迫りました。いよいよ京都を守り切れなくなった平氏一族は、京都の六波羅にあった自分達の館に火をかけて焼き払い、態勢を立て直すため、幼少の安徳天皇を奉じ、三種の神器をとともに西国に逃れていきました。

 

 こうして都から平氏を追い出した義仲は、意気揚々と入京しました。独裁政治を強いていた平家を追い出してくれたことで、義仲は当初、とても歓迎され、義仲は征夷大将軍に任命されました。

 しかし、田舎から出てきた義仲軍は宮中の宝物や食料を奪ったり、高貴な姫たちに乱暴したりと統制の利かない横暴が目立った。このため飢饉でただでさえ食料不足の京都の食料不足はさらに深刻化しました。そして、すでに皇位継承から外された以仁王の遺児・北陸宮を皇太子に推すなどの政治力の鈍さも、貴族たちの反感を買う原因となりました。

 そのため中央貴族たちは義仲軍を追い出そうと企てました。そこで後白河法皇は、同1183年12月10日、義仲に平氏追討の院宣を出し、義仲を官軍として西国に遣わせて平氏との戦いを続けさせました。その一方で、源頼朝とひそかに交渉し、頼朝に東国一帯の支配を認める代わりに、義仲軍を都から追放するよう願い出たのでした。都を手中に収めたいと思っていた頼朝にとって、これは絶好の機会でした。

しかし、これを知った義仲は怒り、後白河法皇を幽閉するというクーデターに出ました。

 これを知った東国の頼朝は、弟の源範頼源義経に、義仲討伐のために京都にのぼるよう命じました。義仲は京都の守りを固め、京都北方の宇治にて、これを迎え撃ったが、惨敗しました(宇治川の戦い)。

 

敗走した義仲も、近江国粟津(滋賀県大津市)で討ちとられました。

 

源平合戦はつづきます。

 

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代           ポプラ社

よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC

読むだけですっきりわかる 日本史  後藤武士=著  宝島社文庫

学研パーフェクトコース 中学社会          Gakken