日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【鎌倉文化】鎌倉時代の東大寺復興プロジェクト【重源】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【鎌倉文化鎌倉時代東大寺復興プロジェクト【重源】」というお話です。

鎌倉時代東大寺の再建を主導した重源は、老体に鞭を打って全国から資金を集め、宋から移入した大仏様としいう技術を使い、用材の規格を統一して経費削減と工期短縮を実現し、東大寺をみごと再建させました。その姿は、素朴で豪壮な美しさが表現されていました。

 京都で大きな勢力を持った寺社が比叡山延暦寺なら、奈良で大きな勢力を持った寺院は東大寺興福寺でした。反平氏の拠点であったこの2つの寺院は、1180年12月、治承・寿永の乱源平合戦がはじまったばかりの頃、平重衡の南都焼き討ちによって炎上、灰に帰した。

 東大寺奈良時代聖武天皇が国富を注いで創建した官寺で、国を護るための寺でした。一方の興福寺藤原氏が建立した氏寺でした。

 朝廷にしろ、藤原氏にしろ、威信を保つために寺の復興は急務でした。興福寺は豊富な財力を持つ藤原氏によって順調に再建していきましたが、東大寺のほうは中々進みませんでした。源平争乱のさなか、朝廷の権威を地に落ち、財政難もあって、復興計画が思うように進まなかったのです。

 そのため、復興には広く多くの一般信者から寄付を集める勧進とよばれる方法がとられることになり、東大寺復興の指揮にあたる大勧進職には、当初、法然に依頼されました。

 しかし、法然は「自分は大勧進の器でない」としてこの依頼を辞退。代わりに、かつて自分の教え子であった重源を推薦しました。

 このとき法然は49歳、重源は61歳でした。当時としてはすでに老年だった重源でしたが、この依頼を引き受け、余生のすべてを東大寺の再建事業に捧げることにしました。

 重源も念仏の普及につとめた浄土宗の僧で、決して高い地位の僧ではありませんでしたが、かつて3度宋(中国)に渡っており、寺院建築の知識や最新技術を学んだ経験豊富な僧でした。

 

 重源はまず、資金の調達からはじめ、老体に鞭を打って全国を行脚して勧進(寄付)を募りました。勧進には奥州の藤原氏鎌倉の源頼朝などのときの権力者の協力も得ることが出来、それと同時に技術者たちを組織して再建の計画を進めていきました。

 翌1181年から、さっそく再建にかかりましたが、巨大な仏像と建築の修理・造営は困難を極めました。

 大仏の鋳造には宋から来た技術者の陳和卿に協力をあおぎ、重源は大仏殿や南大門といった伽藍の建立に取り掛かりました。

 重源は巨材を求めて周防国山口県南部)の山奥まで分け入り、40メートルもの巨木を切り出して、奈良へと輸送する大事業を行いました。その運搬をスムーズにするために佐波川三田尻港、兵庫などの修築が行われたと伝えられています。

 1185年、陳和卿らの大仏の修復が完了し、後白河法皇をむかえて開眼供養式が盛大に営まれました。一方、伽藍の造営は、木材の調達と輸送に手間取り、なかなか着手できずにいました。

 重源は、短期間で大規模な伽藍を再建するために、宋の建築様式に工夫を加え、大仏様(天竺様)といわれる全く新しい建築法を用いました。

 それは部材の規格を数種類のみに統一し、それを組み合わせることで簡単に建築出来るようにしたのです。これによって経費削減と工期短縮を実現しました。たとえば、東大寺南大門は、わずか5種類の部材が全体の80%を占めているという。

 

 こうして1195年、東大寺は見事に再建され、供養の儀式が行われることとなりました。

 供養式には、後鳥羽天皇や再建を積極的に支援した源頼朝北条政子夫妻などの権力者のほかに、公家勢や武家勢など多くの人が参列し、盛大な落成供養が執行されました。

 ちなみに、このとき頼朝夫妻は子の大姫と頼家もつれていきており、頼家を自分の後継者として後鳥羽天皇に紹介し、大姫は朝廷に働きかけて後鳥羽天皇の后とし、朝廷のつながりを深めようとしたと伝えられています。

 重源によって再建された大仏殿は、その後焼失したため、現在は南大門だけが当時の姿を残しています。その姿には、大仏様とよばれる建築技術を用いて、素朴で豪壮な美しさが表現されています。内部には天井がなく、屋根裏まで吹き抜けになっており、柱の直径は1メートル、長さは20mにも及んでいます。

鎌倉時代は、大仏様、禅宗様、折衷様といった新しい建築様式が生まれ、それらは古来の和様と融合していきました。

 鎌倉時代の建築分野には、宋から伝わった新しい建築様式が生まれた時代でした。ひとつは今回ご紹介した重源が東大寺の再建に採用した大仏様(天竺様)で主に宋の南方の様式です。もうひとつは禅宗の寺院建築に用いられた禅宗様(唐様)で、鎌倉の円覚寺舎利殿がその代表例です。

 大仏様が堂々と力に溢れた姿を見せているのに対し、禅宗様は整然として細かい部材を使って緻密な意匠がこらされています。

 一方、平安時代からの和様建築もいっそう洗練され、三十三間堂(蓮華王院本堂)はその代表例として柔和で優美な姿をしている。

 やがて、和様建築のなかには、観心寺金堂のように大仏様や禅宗様の長所を取り入れる建築物も登場し、折衷様と呼ばれました。

 このように鎌倉時代は、宋から新しい建築様式が導入された時代であり、それら様式は、和様と競合したり、融合したりして、その姿を現在に残しているのです。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

早わかり 日本史       河合敦=著 日本実業出版社

テーマ別だから理解が深まる 日本史  山岸良二=監修 朝日新聞出版