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【鎌倉幕府】なぜ源氏の将軍家は3代で絶えてしまったのか【源頼朝】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【鎌倉幕府】なぜ源氏の将軍家は3代で絶えてしまったのか【源頼朝】」というお話です。

源頼朝は、治承・寿永の乱で平家と戦った近親者を邪魔者とみなし、源義仲源義経源範頼の順で殺したのちに征夷大将軍となりました。そんな初代将軍・頼朝が急逝すると、2代・頼家、3代・実朝はまともな政治を行えず、身内によって暗殺されてしまいました。一族を大事にし、戦場で華々しく滅んだ平家に対し、美学のない源氏は骨肉の争いと暗殺によって自滅してしまいました。

 治承・寿永の乱のさなか、頼朝の従兄弟の源(木曽)義仲は、独裁政治を敷く平家一門を京都から追放し、朝廷から迎えられました。

 しかし、その義仲の部下たちが朝廷内で狼藉をはたらいたことで後白河法皇は、頼朝に義仲討伐を命じました。都を手中におさめる機会を狙っていた頼朝は、弟の範頼と義経に命じて義仲追討軍を都へ向かわせました。義仲は京都の守りを固めて、これを迎え撃ったが、範頼・義経の連合軍に惨敗しました。敗走した義仲も、近江国粟津(滋賀県大津市)で討ちとられました。源氏が同じ源氏を滅ぼしたのです。

 その後、範頼・義経は、平家と戦い数々の武功を立てました。特に義経は、少数の手勢のみで平家の大軍を圧倒し、京都と宮廷では非常に人気があり、後白河法皇義経に官位を授け、重用しました。兄の頼朝は、これを快く思わず、自分を脅かす存在とみなしました。

 さらに、武功を独占し過ぎた義経は、東国の武士団からはすこぶる評判が悪く、東国武士団の支持の上に成り立つ頼朝にとって、義経は邪魔な存在でしかありませんでした。

 義経は壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して鎌倉に凱旋しようとするも、頼朝がこれを許さず、義経は京都を棄て、東北の名門・奥州藤原氏を頼って逃亡するしかありませんでした。

 頼朝は義経をかくまった罪を口実に大軍とともに東北に向かい、義経もろとも奥州藤原氏を攻め滅ぼしてしまいました。

 頼朝はさらに、もう一人の弟である範頼も討って、兄弟を皆殺しにしていました。頼朝は、平家と戦った近親者を邪魔者とみなし、義仲、義経、範頼の順で殺し、さらに義仲の長男で自分の長女と結婚していた源義高も殺しました。

 

 こうして多くの近親者を邪魔者として殺した頼朝は、1192年に征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開きました。頼朝は、絶対的権力者として東国武士のうえに君臨したのでした。

 頼朝としては、幕府も無事作ることが出来て、源氏は今後、代々将軍家として安泰な人生を歩むことが出来るはずでした。しかし、源氏将軍家の天下は非常に短く、わずか3代で絶えてしまいました。

 

 まず、初代将軍・頼朝ですが、鎌倉幕府成立から7年後の1199年1月13日に、53年の生涯を閉じてしまいます。死因は落馬による脳出血と言われていますが、糖尿病や暗殺説など様々な説が出ていますが、確かなことは分かっていません。鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』には、具体的な状況が記されていないのです。どうやら秘匿するべき最期だったようです。いづれにしても、鎌倉幕府成立から数年後に亡くなったことは事実です。

 頼朝の後を継いだのは、18歳の長男・源頼家でした。1202年、頼家は鎌倉幕府2代将軍に就任しました。頼家は幼い頃から武芸第一主義で育てられ、12歳のときには巻狩(まきがり)で鹿を射止めるなど、武人のとしての力量は優れていました。

 しかし、鎌倉幕府が成立したことで、合戦の世は終わりを告げたため、将軍に武芸と才能は求められませんでした。そのかわり、政治力が求められました。しかし、頼家には政治力や裁判を執り行う力がありませんでした。

こんなエピソードがあります。

ある日、御家人同士で土地についての裁判がありました。

「この土地は先祖代々わしの家のものだ。」

「何を言うか、この土地はわしの土地じゃ。」

この争いに対して、裁判した頼家はおもむろに筆を取り出し、土地の絵図の中央に一本の線を引いたうえで、言いました。

「ここから先がそなたの土地、そして、ここから先がそなたの土地とする。土地が広いか狭いかは、そなたらの運しだいとなる。それが嫌だったら、今後は争わないことだ。」

 武士にとって、土地とは命懸けで戦って守った、または入手した大事な財産です。そんな大事な財産である土地を、何の根拠もなく、いい加減にその所有権を決められたのでは、たまったものではありません。

 したがって、頼家は御家人からの評判がすこぶる悪かった。鎌倉幕府の基盤は御家人の奉公によって成り立っています。これでは幕府の面目は丸つぶれです。

 この状況を見かねた頼家の母・北条政子は、頼家の将軍就任後、わずか3か月後で親裁を停止し、政治は有力御家人13人による合議制となってしまいました。その中で頭角を現したのが、政子の父で頼家にとっては外祖父にあたる北条時政でした。時政は政所の長官も兼任していました。

 そのため、幕府内では、頼家を支持する勢力と、有力御家人たちの勢力が対立するようになりました。

 頼家の勢力の中心にいたのは、娘を頼家に嫁がせていた比企能員(ひきよしかず)でした。

 翌1203年、頼家が重病に倒れると、時政は頼家の弟である実朝を将軍の座に就けようとしました。この時政に怒った比企能員は頼家と結託して、時政を討とうとしましたが、逆に時政のカウンター攻撃によって能員は殺されていまい、頼家は将軍の地位を解任され、伊豆国修善寺静岡県伊豆市)に幽閉された後、翌年殺されました。

 

 頼家の後を継いだのは、頼朝の次男・実朝でした。実朝は3代将軍に就任時は12歳の少年で、幼い将軍を補佐する地位には時政が就きました。その地位は、「権力」を代わりに「執り行う」ことから執権と呼ばれました。

 時政は梶原景時畠山重忠といった頼家側の重臣を倒して幕府の実権を掌握しました。そして1205年、時政は実朝を廃して、自分の娘婿である平賀朝雅を将軍にしようと図ります。

しかし、これを知った政子は激怒しました。

「東国の御家人清和天皇の血を継ぐ源氏に忠誠を誓っています。元来平家である我が北条一族が将軍になるなど、御家人から反発が出るのは、明らかなことです。」

 こうした失態を犯したことで時政は失脚し、次の2代執権には北条義時が就任しました。義時は正面では実朝をたてながら、北条氏と対立する有力御家人を取り除こうとしました。1213年、義時は、幕府開設以来、侍所の長官として勢いを増していた和田義盛を、陰謀によって滅ぼしました。こうして義時は、侍所と政所の長官を兼ね、執権政治を確立し、その地位を息子の泰時(3代執権)にも伝えていくのでした。

 

 こうなると、将軍の地位はカタチだけのものとなります。実朝はどうなったのでしょうか。実朝はもともと将軍職をやりたがらなかった。武士という職業にも興味がなかっただけでなく、政治も積極的にやろうとしなかった。

 実朝は、京都から後鳥羽上皇の側近の娘を妻に迎えていたためか、朝廷や貴族の暮らしに憧れていました。そのため、武士の棟梁でありながら、和歌や蹴鞠などに熱を入れ、官位の昇進にばかり関心を向けるようになりました。

 その結果、実朝は「金槐和歌集」という歌集を出し、歌が百人一首にも選ばれるなど文化人としては大変に優秀な功績を残した人物でした。

しかし、当然、これは御家人たちからは歓迎されませんでした。

「そんな公家みたいなことばかりやっていないで、武士らしく稽古でもしろ」

 

 1918年1月27日、実朝は27歳の若さで右大臣に上りました。翌年にはその昇進を祝うため、実朝は雪が積もった鶴岡八幡宮に参拝に出向きました。しかし、参拝を済ませて帰るところを、木の陰に隠れていた頼家の子・公暁(くぎょう)に暗殺されてしまいました。この実朝暗殺には北条義時が裏で糸を引いていたのではないかという黒幕説がありますが、真相はさだかではありません。

 実朝には子供がいなかったため、源氏の将軍の血筋はわずか3代で絶えてしまいました。

 さて、今回はなぜ源氏将軍家が3代で絶えてしまったのかを見てきました。かつて源氏も平氏も武功を挙げて朝廷に取り立ててもらうことで武家の棟梁として地位を確立しました。

 しかし、その両者の気風は大変異なっていました。朝廷に取り入るカタチで、政権を確立した平氏はその一族を高位高官に上げ、知行国主も平氏一門で独占しました。これに対し、源氏は身内だろうと邪魔な者は排除し、朝廷も半ば屈服させることで、その政権を確立しました。そんな両者の最期は、戦場である意味華々しく散っていた平氏に対し、源氏は骨肉の争いと暗殺によって自滅してしまいました。そんな源氏には、平氏のような美学が感じられません。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著 宝島社文庫

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC