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【源平合戦ドラマ3】名将?愚将?源義経 【源義経】

こんにちは。本宮 貴大です。

源平合戦ドラマ3】名将?愚将?源義経 【源義経

 1180年から1185年にわたって続いた源平の争乱は、その元号をとって治承・寿永の乱とも言います。以仁王の挙兵から壇ノ浦の戦いまで、およそ5年間にわたり日本各地で大規模な内乱が繰り広げられました。

 今回も、そんな源平合戦のドラマを、源義経を主人公に見ていきたいと思います。義経といえば、源平合戦で活躍し、源氏を勝利に導いた最大の功労者ですが、その実態は我々の想像とは少し違っていたようです。

源義経は少数の手勢で平家の大軍を打ち砕いた名将でした。しかし、その勝利は義経の単独的で卑劣な戦い方によるもので、まともな武士たちからは支持されませんでした。義経は、リスクの多い戦法を得意とする勇将ではあっても、正々堂々と戦って勝利する徳のある良将とは程遠い存在だったのです。

 源義経は、1159年に生まれた源義朝の子で頼朝の異母弟です。幼いときの名は牛若丸。平治の乱の頃で源氏が大敗した時は、まだ生まれたばかりの赤ん坊であり、今若と乙若の2人の兄とともに母の常盤御前(ときわごぜん)に連れられて逃げていました。しかし、常盤の母が人質に取られ、常盤は清盛のもとへ名乗り出たところ、清盛が常盤の美しさに目がくらみ、自分のもとに来ることを条件に3人の子供の命を助けてしまいました。このとき、赤ん坊の義経は京都の鞍馬寺に預けられました。

 そんな義経が19歳の頃、源平争乱が勃発し、生き別れとなっていた兄・頼朝の挙兵に応じて富士川の戦いの際に、頼朝のもとに駆け付けました。1183年末には、頼朝は源範頼義経同様に弟)と義経に、京都で暴政を働いている源義仲を討伐するために京都にのぼるよう命じました。

 翌1184年1月には、関東からやってきた源範頼源義経をリーダーとする源氏の軍勢は、京都にあった源(木曽)義仲を滅ぼしました(宇治川の戦い)。この功績を称えた後白河法皇は、範頼・義経平氏討伐の院宣を下しました。院宣を受けた範頼と義経平氏を討つためにさらに西へ向かいました。

 一方、平氏は京都を追われ、いったん九州に落ち延びたものの、京都で義仲が征伐されている間に、勢力をもりかえしていました。平氏はもともと瀬戸内海までの西国を制圧しており、新たに讃岐国香川県高松市)の屋島(やしま)を本拠として、かつて清盛が一時的に都にしていた福原(兵庫県神戸市)にその主力を置き、京都奪還を狙っていました。

 かくして福原の一の谷に陣を張った平氏は自信満々でした。平家の籠る一ノ谷は、難攻不落な要塞であり、南は海に面し、北は険しい山に囲まれ、東西につながる通路は狭い。平家が東西を固く守るなら、そう簡単に落ちることはありませんでした。

 1184年2月、福原に向かった範頼と義経は2手に分かれて戦うことにしました。範頼が南の浜から攻める一方、義経は迂回して山側から攻める作戦をとったのです。

義経が担当する一の谷の北方の鷹取山には、鵯越(ひよどりごえ)という切り立った崖があり、ここは、人はもちろん、馬で超えることも無理とされました。

義経は地元の人間を捕まえて、聴き取り調査をしました。

「この崖は、馬で下れるか?」

「それは無理だと思います。」

「では、鹿ならどうだ?」

「ああ。鹿なら可能だと思います。野生の鹿がこの崖を駆け下りている姿を見たことがあります。」

これを聞いた義経は、軍団に言い放ちました。

「おい、みんな聞いたか?鹿が下れるのなら、同じ四本の足を持つ馬が下りられないはずがない。」

 こうして2月7日、義経率いる少数の騎馬隊は鵯越の切り立った崖をまっすぐに駆け下りて平氏の陣を襲いました。これが有名な義経の「鵯越の逆落とし」です。

 まさか鵯越を駆け下りてくるとは思っていなかった平氏軍は、北方に対する備えが甘かったため、たちまち総崩れとなり、大敗しました(一ノ谷の戦い)。平家の名のある武将も討ち取られ、平敦盛熊谷直実に討ち取られています。ここから平家物語で特に有名な「敦盛の物語」も誕生しています。大敗した平家は、さらに西に逃れました。

 この義経の少数による奇襲は、「少数が大軍を制した」ことで、義経にとって大きな功績となりました。一歩間違えれば自軍が自滅しかねない大冒険な戦いでしたが、義経は見事に平家を圧倒したのでした。

 一方で、多くの源氏方の武士が義経に対し、にわかに不満を持つようになりました。武士は戦で手柄を立てて初めて認められる世界です。したがって、大将は部下に手柄を立てさせなくてはなりません。それなのに、義経は少数の手勢のみで平家を圧倒してしまったことで、今後、源氏方の武将たちが立身出世できる絶好の機会を奪ってしまったのでした。

 こうした義経の活躍に目をとめた後白河法皇は、義経に官職や位を与えてとりたてました。しかし、これが頼朝を怒らせることとなりました。

 頼朝の許可なしに頼朝の家来が朝廷の官職につくのは、極めて無礼なことだったからです。9月になって平氏への攻撃が再開されましたが、義経は京都に留め置かれ、範頼が軍を率いることとなりました。

 西国に進んだ範頼の軍勢は、平氏を追って山陽道から平家を討伐し、九州へと遠征するも、途中で兵糧が尽き、範頼軍は潰滅寸前にまで陥りました。

 そこで頼朝は、義経を起用せざるを得ませんでした。再び出陣した義経は、1185年2月、夜の嵐をついて舟で四国の阿波国徳島県)に上陸し、屋島の背後を突いて平氏の本拠を襲いました(屋島の戦い)。

義経屋島の戦いは、一ノ谷の戦い以上に激烈なものでした。義経はわずかな手勢のみで、次々に敵陣を破り、数のうえでは圧倒的に優勢だった平氏を遂に海上に追い落としました。

 またしても、義経が少数の手勢しか集められなかったのは、このとき義経が信望を失っていたからですが、それでも義経は少数による奇襲で平氏の大軍を打ち破ったのです。これによって義経には「奇襲の義経」のイメージが出来上がりました。

 

 さて、瀬戸内海の本拠地であった屋島を失った平氏は瀬戸内海を西へと逃れ、長門国彦島山口県下関市)を最後の拠点としました。ここが陥落するなら、栄華を誇った平家一門も終わりをつげます。

 同1185年3月、義経は瀬戸内海の水軍を味方にして壇ノ浦で決戦を挑みました。源氏と平氏の最終決戦は、壇ノ浦での水軍同士の戦いとなりました(壇ノ浦の戦い)。

 この海上決戦は、源氏にとって勝って当然の戦いでした。義経軍は840隻の舟、対する平家側は500隻に過ぎませんでした。

 義経はこの水上戦では、一ノ谷の戦い屋島の合戦のような大博打をする必要がありませんでした。

 そんな勝ちが決まったこの水上戦で、義経はまたしても大博打をせざるを得ない状況に陥りました。源氏側の水軍は、一列に並ぶ単純陣で平家水軍に突っ込んでいきましたが、対する平家軍は水軍を左右に広げ、左右から源氏水軍を弓矢で挟撃したのです。

 平家のこの知略は、義経のそれを上回っており、このままでは源氏は平家に大敗しかねない状況となりました。

 そこで義経が打った手は、平家水軍の楫取(かとり)とよばれる舟の漕ぎ手を弓矢で射殺するというものでした。楫取は鎧をはじめとする防具を身に着けていないので、簡単に射殺できた。楫取を失った平家水軍の舟は漂流し始め、平家軍は混乱に陥ってしまった。

 こうして、追いつめられた平氏一族は次々に海に身を投げて死に、8歳の安徳天皇二位尼(清盛の妻・時子)に抱かれて海に沈みました。天皇の母の建礼門院(清盛の娘・徳子)は助けられたものの、平氏一門を率いていた大将・宗盛は捕らえられ、処刑されました。ここに平家は滅び去ったのでした。

 こうして義経は平家一門を滅ぼすという大きな戦果をあげたわけですが、それは賞賛しがたいものとなりました。まず、壇ノ浦の戦いは、水上戦であったため、源氏方の多くの武士たちが属する騎馬武者の活躍の場がなかったこと。壇ノ浦の勝利は、義経とその手勢、さらに瀬戸内海の水軍による手柄であり、多くの武士たちが武功をあげられないまま、平家は滅んでしまった。

 また、その壇ノ浦の勝利さえも、多くの武士達にとっては「恥ずべき勝利」でしかありませんでした。それまでの日本の戦闘では、陸戦で馬を射るのは卑怯とされていたように、水上戦で楫取を殺すのもまた卑劣な戦法であるとみなされていました。

 さらに、壇ノ浦の勝利は、頼朝や後白河法皇からも高く評価されていない。後白河法皇は源氏に天皇の象徴である三種の神器の奪還を求めていました。義経安徳天皇とともに海中に没した神器のうち、鏡と勾玉は回収したものの、剣が行方不明になるという大失態を犯してしまった。しかも、安徳天皇も入水に追いやってしまったことで、壇ノ浦の勝利は非常に不手際の多い勝利となってしまいました。

 こうして常勝無敵のはずの義経が、信望を得られないという状況が出来上がってしまいました。

 義経の「少数による大軍の制圧」は、つねに軍事的冒険や夜に乗じた奇襲作戦でしか実現できず、多くの武士たちの活躍の場を奪ってしまった。そして壇ノ浦の勝利は、合戦のルールを破るという反道徳的な戦法によって成し得たものでした。

 

 今日、源義経源平合戦における最大の功労者にも関わらず、最後には頼朝によって自害に追い込まれた悲劇の名将として語られています。しかし、そんな悲劇の名将の実態は、単独的で卑劣な戦法から、まともな武士たちからの信望を得ることが出来なかった愚将としての姿がうかがえます。義経は、勇敢に戦う勇将ではあっても、徳のある良将とはみなされなかったようです。

 

源平争乱は続きます。

 

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著 宝島社文庫

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社

日本史 誤解だらけの英雄像  内藤博文=著   KAWADE夢文庫