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【源平争乱4】なぜ源義経は源頼朝に倒されたのか【源義経】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【源平争乱4】なぜ源義経源頼朝に倒されたのか【源義経】」というお話です。

 1180年から1185年にわたって続いた源平の争乱は、その元号をとって治承・寿永の乱とも言います。以仁王の挙兵から壇ノ浦の戦いまで、およそ5年間にわたり日本各地で大規模な内乱が繰り広げられました。

 今回も、そんな5年にもおよぶ源平合戦を見ていきながら、源義経源頼朝に倒された理由について見ていこうと思います。源氏を勝利に導いた源平合戦の最大の功労者であるはずの義経が兄・頼朝に倒されたのは、なぜでしょうか。また、その背景には、どのようなドラマがあったのでしょうか。

源頼朝の弟・源義経は、源平合戦の武功により、朝廷から官位を授かりました。しかし、そんな義経を脅威と見た頼朝は、東国武士団の義経に対する反感もあって義経を討ち取ることにした。武士団からの支持を集められない義経は頼朝と戦うことも出来ず、平泉の奥州藤原氏のもとに逃げるしかありませんでした。しかし、やがて裏切られて自害しました。

 源義経が自害に追い込んだ張本人は、兄の源頼朝です。ふたりの対立するようになるのは、1185年の壇ノ浦の戦い以後にはじまります。

 1185年、義経壇ノ浦の戦い平氏を滅ぼした後、後白河法皇から検非違使の官職を得ました。これに対して頼朝は自分の許可なしに頼朝の家来が朝廷の官職につくのを禁止していたため、義経に墨俣から東に来るならば処刑するとしました。頼朝は後白河法皇との結びつきを強める義経を自分の地位を脅かす者として警戒するようになったのです。

 そこで義経は頼朝の誤解を解くべく、鎌倉近くの腰越で頼朝宛に書状を送りました。これが腰越書状ですが、頼朝はこれを無視しました。

 かくして頼朝と義経は対立するようになったわけですが、大胆に動いたのは、義経のほうでした。義経後白河法皇を頼りました。後白河法皇としても平氏が滅んだのも、つかの間、今度は源氏が世の中を支配しようとしている流れが面白くありませんでした。法皇は源氏の力を削ぐために義経に頼朝追討の院宣を発したのでした。

 これによって、立場としては院宣を受けた義経の方が優位になり、義経自身もたくさんの武士を招集出来る計算があったのでしょう。

 しかし、その義経の予想は完全に空転となりました。義経のもとには武士が集まらず、それどころか義経を追放しようとする武士さえ出ていました。

 義経の討伐相手は、もはや東国全域の武士団の棟梁である頼朝です。挙兵に失敗した義経は、勝ち目がないと悟り、ついに京都を棄て、逃走しました。義経は最初、西を目指して摂津の浜から舟に乗るも、嵐によって舟を壊され、味方も全く得られないまま、落ち延びていくしかありませんでした。

 義経は、頼朝と合戦に持ち込むことも出来ずに、完敗したのです。

 

 一方、こうした状況をあらかじめ予期してかのように頼朝は大軍を率いて、間髪入れずに京都に上りました。そして、後白河法皇に頼朝追討の院宣を発した責任を追及しました。

 しかし、頼朝は法皇に頼朝追討の院宣を暗に咎めただけで、それを撤回させると同時に、諸国に義経を探して捕らえるための組織として、守護・地頭を置くことを認めさせました。

これによって事実上の鎌倉幕府が成立しました。1185年のことです。

 

 義経が頼朝のまえに完全に無力だったのは、義経には大将として徳がなかったからです。治承・寿永の乱において、義経は本来、関東の武士たちが立てるはずの手柄を独占し過ぎた男でした。武士は戦で手柄を立てて初めて認められる世界です。したがって、大将は部下に手柄を立てさせなくてはなりません。

 それなのに、義経は少数の手勢のみで平家を圧倒してしまった。

 壇ノ浦の戦いにいたっては、水上戦であり、東国武士が多く属する騎馬武者には活躍がありません。義経とその少数の手勢のみが手柄を立て、多くの武将たちは輝かしい武功を挙げられないまま平家は滅んでしまいました。これから武士による武士のための理想国家が建設されそうな激動の時代に、源氏方の武将たちは立身出世できる絶好の機会を義経に奪われてしまったのです。

 一方、頼朝の基盤は、東国武士団の支持なしにはありえない。そんな東国武士団の気持ちを配慮して、どうしても義経を冷遇せざるを得なかった。義経がこれに不満を持っても、それ以上に東国武士団は義経に不満を抱いていたのです。

源頼朝にとっての最後の強敵は東北の奥州藤原氏でした。そんな中、頼朝は逃亡中だった源義経奥州藤原氏のもとに身を寄せていることを知りました。頼朝は義経をかくまった罪を口実に奥州藤原氏を滅ぼし、1192年には征夷大将軍に任命されました。

 さて、事実上の鎌倉幕府を成立させた頼朝にとって、最後の敵勢力は奥州藤原氏でした。頼朝にとって、奥州藤原氏は鎌倉の背後をおびやかす脅威でした。

 奥州藤原氏は、後三年合戦の後、奥州の平泉(岩手県平泉町)を拠点に、清衡・基衡・秀衡と3代にわたって東北地方に勢力を築き、朝廷の干渉をほとんど受けずに、なかば独立した政権を保持していました。東北地方は、頼朝の力の及ばない地域だったのです。

 そんな奥州藤原氏の実力を熟知していた頼朝は、幕府の基礎固めをしつつ、奥州に攻撃を仕掛ける機会をうかがっていました。

 すると、1187年になって、頼朝が血眼になって探していた義経が、奥州藤原氏をたよって平泉の秀衡のもとに身を寄せているという情報が入りました。

 こうして頼朝は、奥州に攻め入る口実が出来、義経もろとも奥州藤原氏を滅ぼしてしまおうと考えました。

 しかし、頼朝は最初、秀衡に義経の身柄を差し出すように求めました。秀衡の拒否にあって容易に手が出せません。

 ところが、都合のよいことに、まもなく秀衡が病気のために亡くなったのです。頼朝はそれを待っていたかのように朝廷に訴えて、秀衡の子である泰衡に義経を差し出すように命じさせました。そして、命令に従わなければ、兵を差し向けると脅しました。すると泰衡は、頼朝が攻めてくるのを恐れ、自分で義経を討つ決心をしました。

 1189年、泰衡は義経のいる衣川の館を襲い、義経を自害に追い込みました。

 義経の死は鎌倉に伝えられましたが、頼朝は奥州への出撃を辞めませんでした。狙いは奥州藤原氏を滅ぼすことにあったからです。自ら大軍を率いて鎌倉を発した頼朝は、泰衡を滅ぼし、ついに東北地方を支配下に置きました。そして、手柄のあった武士に恩賞として領地を与え、後に奥州総奉行をおいて御家人の統率や治安維持にあたらせました。こうして頼朝の支配は全国に及ぶようになりました。

 

 翌1192年、頼朝は全国制覇を成し遂げ、平和を回復したことで、再び大軍を率いて京都に上り、後白河法皇と対面しました。頼朝と法皇は険悪なムードでしたが、法皇はカタチの上では頼朝を厚くもてなし、右近衛大将に任命しました。

 しかし、この官職は天皇を守る役目で、貴族にとっては名誉ですが、頼朝にとっては意味を持ちません。そこで、頼朝はこれを一旦受けた後、まもなく辞退して鎌倉に戻りました。

 

 頼朝が望んだのは、武家の棟梁(指導者)にふさわしい征夷大将軍の地位でした。鎌倉に戻った頼朝は、公文所を政所に改めるなど、政治のしくみをあらためて整備します。

 そんな中、1192年、後白河法皇が病気の悪化により、亡くなったという知らせが入りました。法皇が亡くなったことで朝廷では頼朝と親しい九条兼実が実権を握るようになりました。これによって、頼朝は後白河法皇が拒み続けていた征夷大将軍の地位を賜ることに成功しました。

 ここに鎌倉幕府は名実ともに出来上がり、朝廷と幕府が協力して政治を行う体制が実現しました。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著 宝島社文庫

日本史 誤解だらけの英雄像  内藤博文=著   KAWADE夢文庫

聞くだけで一気にわかる 日本史 馬屋原吉博=著  アスコム