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【平治の乱】平治の乱が起きた原因とは?

こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【平治の乱平治の乱が起きた原因とは?」というお話です。
今回は平治の乱がなぜ起きたのかについて見ていきます。まず、両陣営の対立構造を確認してから本文に入りましょう。

勝利 敗北
信西(藤原道憲) 藤原信頼
平清盛 源義朝

 保元の乱後、その戦後処理は極めて厳しいものとなりました。200年以上執行されていなかった死刑が復活し、捕らえらえた首謀武士たちは次々に処刑され、崇徳上皇讃岐国香川県)に流されました。

 一方、勝者の側はどうなったのでしょうか。
1156年7月の保元の乱のあと、後白河天皇は新しい政治をはじめようとしました。その政治を助けたのは鳥羽法皇の頃から院近臣だった学者の藤原道憲(みちのり)でした。道憲は才識に優れ、保元の乱の処理も取り仕切っておこなったが、家柄が低くて出世出来ず、妻が後白河天皇の乳母(母の代わりに育てる人)だったことを利用することで、近臣に取り立ててもらえました。後白河天皇も、道憲を重用したため、影の実力者となりました。

 1158年、後白河天皇は皇子(二条天皇)に皇位を譲り、自らは上皇となりました。道憲も出家して信西と名乗るようになりました。
しかし、後白河上皇の近臣として権勢を振るっていたのは信西だけでなく、藤原信頼もそうでした。信頼は、家柄の低い信西がますます権勢を高めることに不満を持ち、やがて信西と対立するようになりました。

 一方、武士たちも、その恩賞の差に対する不満から対立が生じました。
源義朝は、保元の乱平清盛を上回る功績を出しながら、恩賞は清盛のそれよりも、はるかに劣るものでした。
清盛は播磨守を拝命し、知行国4か国を与えられたのに対し、義朝は左馬頭(馬の飼育場の長官)に任命されたのみで、知行国も1か国のみでした。
 さらに、義朝としては、実父である源為義と対立してまで勝利に貢献したのに、その父の助命も許可されず、為義は六条河原で処刑されました。その結果、義朝一家は壊滅的な打撃を被りました。

 この恩賞の差に激しい不満を持った義朝は、信西と結びつこうとしましたが、信西はかえって清盛と結びついたため、義朝は、信頼と結ぶことになりました。

 そして1159年12月9日、信頼は二条天皇側から反信西の勢力を集め、義朝は軍事力を集め、兵を挙げました。その数日前、平清盛平氏一門とともに熊野(和歌山県)に参詣し、京都を留守にしたので、その隙を狙ったのです。
義朝たちは後白河上皇の院の御所・三条殿を夜襲し、上皇二条天皇を内裏に幽閉しました。その後、信西の屋敷を焼き討ちにするも、信西は寸前のところで屋敷を脱出していました。

 義朝たちは、姿をくらました信西を見つけるべく検非違使たちに探させました。

 数日後、信西は山中で自殺しているのが発見され、その遺体から首が切られ、都で晒されました。こうして、信頼が朝廷の権力を握り、義朝との挙兵は成功したかに思えました。

 しかし、熊野に参詣に行った清盛率いる平治一門は、義朝らの挙兵の知らせを受け、六波羅京都市東山区)に引き返していました。そして、ひそかに宮中に手をまわし、上皇天皇を内裏から脱出させました。

 そして同1159年12月26日、義朝軍と清盛軍は加茂川の六条河原で決戦となりました(平治の乱)。義朝軍は奮戦するも、兵力不足で清盛軍に敗れ去りました。捕らえられた藤原信頼上皇に許しをもとめるも、処刑されました。

 六条河原から落ち延びた義朝は、再起を図るため東国へ急ぐも、その道中の尾張国(愛知県西部)で部下の謀叛にあい、殺されました。また、この戦いには義朝の長男・義平(19歳)、次男・朝長(16歳)、三男・頼朝(13歳)も参加していましたが、生き延びたのは敗走する中で一行からはぐれた頼朝だけでした。
そんな頼朝も平氏に捕まり、殺される運命だったものの、清盛の義理の母・池禅尼の命乞いにより、その命は助けられ、伊豆に流されました。
また、頼朝と腹違いの弟・義経も命を助けられ、京都北方の鞍馬寺に預けられました。

 のちに、この兄弟によって平氏が滅ぶことになるとは、清盛も全く思わなかったでしょう。

 平治の乱で、源氏一門の主流は壊滅状態になり、中央政界からも大きく退けられることとなりました。その一方で、平氏一門は勢いを増し、清盛は政界で高位高官に就き、参議に任命され、公卿の列に加えられました。

 さて、今回は平治の乱を紹介しましたが、保元の乱では、皇室や貴族の政争に武士の力が利用されたのに対し、今回の平治の乱では、源平2つの武士団の対立抗争に、貴族の政争がからまって起こったものでした。ここに歴史の動きを見ることが出来ます。この平治の乱によって、時代は明らかに貴族社会から武士社会に移行し、中世社会の基礎がつくられたと言えるでしょう。

つづく。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

参考文献
いっきに学びなおす日本史古代・中世・近世【教養編】        東洋経済新報社
日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社
早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社
よく分かる!読む年表 日本の歴史  渡部昇一=著  WAC