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【南北朝文化】天皇さえ軽んじたバサラ大名とは?【佐々木道誉】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【南北朝文化天皇さえ軽んじたバサラ大名とは?【佐々木道誉】」

 鎌倉時代から正式な身分となった武士は、南北朝時代にかけて強くたくましく成長してきましたが、武家独自の文化は育たず、公家文化への憧れとともに、武家の奢侈的性格が色濃くでてきます。これが南北朝期に流行したバサラという風俗を生みました。

 南北朝の内乱をきっかけに、強くたくましく成長してきた武士たちの間では、人々が寄り合って、連歌会や茶会を頻繁に催すようになりました。

 それは足利尊氏が幕府を開くにあたって制定した「建武式目」を見ればわかります。そこの第2条には「人々が寄り合い、飲んだり遊んだりすることを禁止する」という条項があり、そこで具体的に禁止されていたのが、金品を賭けて行う連歌会や茶会でした。

 武士たちのあいだでは、連歌会や茶会で儲けたお金で、目にも鮮やかな衣装や装飾品を身にまとい、金に糸目をつけない贅沢をすることが流行りました。これを当時の流行語でバサラといいました。

 バサラとは、漢字で婆娑羅などと書きます。インドの古い言葉で、あらゆるものを砕く硬い鉱物を意味します。中国では、それを金剛(こんごう)と訳しています。金剛といえば、ダイヤモンドを意味します。そこから見栄をはって派手に振る舞うこと、おごり高ぶって贅沢であること、勝手気ままに振る舞い、伝統や権威を軽んじる態度を指す意味で用いられるようになりました。

 「建武式目」の第一条では「倹約につとめること」という条項を設けて、礼儀作法をわきまえず、身分不相応な贅沢を好むバサラの風潮を戒めています。当時、衣服や髪型は身分や職業を表す標識であり、これを自在に変える行為は伝統や権威・権力への反抗を意味しました。

 バサラの風潮は、もともとは悪党からはじまったものでした。それが一般武士層にも広まり、ついには守護大名へも広がりました。

 たとえば近江の守護大名佐々木道誉もその一人でした。道誉は、1306年に近江国滋賀県)に生まれ、鎌倉幕府の14代執権・北条高時に仕えたあと、足利尊氏に従って室町幕府の創立に功績を上げました。その功績から出身地である近江国の守護に任命され、幕府の実力者にもなりました。道誉は、和歌や連歌、猿楽など通じた文化人ですが、金銀をちりばめた武具や綾・錦の高価な織物に身をつつみ、人目をはばからぬ傍若無人な振り舞いで、人々の度肝を抜き、「バサラ」と呼ばれるようになりました。そんなバサラ大名・道誉は、ある日、光厳上皇の弟宮の家来と争ったあげく、宮の御所(要するに天皇ゆかりの寺)を焼き払うという暴挙に出ました。

 さらに、美濃国岐阜県南部)の守護の土岐頼遠は、道で光厳上皇の行列に出会っても馬からおりて礼をしようとせず、それを咎められると上皇を「イヌ」と呼び、矢を放ちました。

 そして、足利尊氏の執事・高師直は、「天皇上皇などという邪魔なものはどこへでも流してしまったらよい、天皇など木や金で作ればよいだろう」と発言したと伝えられています。

 しかし、このような守護大名のバサラは、後の北山文化への源流となっていきます。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社 

テーマ別だから理解が深まる 日本史    朝日新聞社

もういちど読む  山川日本史      山川出版社