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【室町幕府】足利歴代将軍をわかりやすくご紹介【初代~5代】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【室町幕府】足利歴代将軍をわかりやすくご紹介【初代~5代】」というテーマでお伝えします。

今回は以下のような室町幕府の初代~5代将軍の活躍や功績をご紹介していこうと思います。

この頃の室町幕府には、有能で歴史的な実績を残した将軍が多く、室町幕府の創成期と全盛期が築かれました。

・幕府を創設した人心掌握のプロ

   初代将軍 足利尊氏(在位期間:1338~58)

・動乱期を戦い抜いたリアリスト

   2代将軍 足利義詮(在位期間:1358~67)

室町幕府の最盛期を築いた日本国王

   3代将軍 足利義満(在位期間:1368~94)

・義満の政策を取捨選択

   4代将軍 足利義持(在位期間:1394~1423)

・父から禁酒令を出された将軍

   5代将軍 足利義量(在位期間:1423~1425)

 

幕府を創設した人心掌握のプロ

初代将軍 足利尊氏(在位期間:1338~58)

1305年、尊氏は源頼朝につながる名門・足利家に誕生しました。当時は鎌倉幕府の時代で、尊氏も有力御家人として幕府に奉公していました。しかし、鎌倉幕府とは何かと折り合いが悪く、後醍醐天皇と手を組んで鎌倉幕府を滅ぼしました。その後、後醍醐天皇による建武の親政が始まるも、それに不満を抱いた御家人たちの期待は、源氏の名門である尊氏のもとに集まりました。尊氏は決して天皇を追い出して自分が天下をとろうという野心満々の人物ではありませんでした。しかし、武士達を無視するわけにもいきませんでした。御家人たちは尊氏の慈悲深く、活躍した者には気前よく褒美を与える性格に惹かれていました。そんな尊氏は人心掌握のプロだったといえるでしょう。

結局、尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、建武の親政を2年で終わらせるも、後醍醐は奈良の吉野に逃げ、自らが正統な天皇南朝)であると主張し続けました。尊氏はそんな南朝を無視し、1338年に後醍醐に代わる新たな天皇北朝)を立て、その天皇に自分を征夷大将軍征夷大将軍に任命させ、建武式目を制定したうえで京都に幕府を開きました。こうして北朝南朝が対立する形になりましたが、当初は北朝が優勢で、この対立はすぐに終わるかに思われました。しかし、足利氏を中心とした北朝側でも権力闘争が起こり、尊氏は、吉野を制圧出来ませんでした。

以後、天皇2人状態の「南北朝時代」が始まるのでした。

 

動乱期を戦い抜いたリアリスト

2代将軍 足利義詮(在位期間:1358~67)

義詮が将軍就任当時は、劣勢だった南朝の勢力が強大化し、室町幕府は前途多難な状況に立たされていました。

前将軍・尊氏の死後、尊氏に従っていた北朝側の御家人たちが権力の座をめぐって互いに争い、それに負けた者たちが、その報復のために相次いで南朝に寝返るという事態が起こりました。

また、当時の武士社会が均分相続から単独相続に移行したことで、相続争いで本家と分家が対立し、本家が北朝につけば、分家が南朝につくといった状況も生まれ、南北朝の動乱は長期化・泥沼化していったのです。

そんな状況を打破するべく、義詮は、地方武士を束ねる全国の守護に協力を得るために様々な権限を与えました。特にその国内の荘園や公領からの年貢の半分を守護が徴収できる半済令が発布されたことは大きな特権でした。これによって、近江国美濃国尾張国、さらには山陰地方に勢力を持つ山名氏や中国地方西部に勢力を持つ大内氏北朝側の味方となりました。これによって、南朝の弱体化に成功した義詮でしたが、結局は南北朝の動乱を終わらせることが出来ず、戦いに次ぐ戦いのなかでその生涯を閉じました。

一方、権限が与えられた各地の守護の力はにわかに強くなり、彼らはいつしか守護大名とまで呼ばれるようになっていきました。

 

室町幕府の最盛期を築いた日本国王

3代将軍 足利義満(在位期間:1368~94)

将軍に就任した時の義満は、わずか11歳でした。この当時は、未だ南北朝の内乱も続いており、室町幕府の情勢は先行き不透明でした。そんな中、義満は20歳を超えたあたりから徐々に室町幕府の組織体制を整備していきます。それと同時に中国大陸で新たに建国された明国から「日本国王」に対し、正式な国交樹立の要求を受けました。しかし、この頃の義満の地位は支配者とよべる地位にはなく、それに対応できませんでした。一方で、明との貿易で得られる利益には注目していました。

義満は室町幕府の権威を確立するために、南北朝の動乱のなかで力を強めた各国の守護たちの勢力削減に乗り出しました。1391年に明徳の乱で山名氏の勢力を削減し、1399年の応永の乱では大内氏の勢力も削減しました。

そんな中、1392年には、遂に南北朝の合一も実現し、義満は室町幕府を正式な武家政権として成立させました。その後、義満は将軍職を息子の義持に譲った後も実権を握り、公家の最高位である太政官に就任しました。こうして武家と公家の頂点に君臨した義満は、満を持して明国との正式な外交政策に乗り出し、明国の冊封体制下に入る代わりに、天皇を差し置いて、自らは「日本国王」の称号を貰い、関税のかからない利益の大きい自由貿易日明貿易)をする許可も得ました。

出家後は、京都の北山に移り住み、ここを公家と武家が融合した北山文化を発信地としました。晩年は朝廷の権限さえも掌握するようになり、次男・義嗣に皇位を継がせようとするも、その直前に義満は原因不明の高熱にかかり、急死。暗殺説も根強いです。もちろん義嗣の皇位継承も白紙となりました。

 

義満の政策を取捨選択

4代将軍 足利義持(在位期間:1394~1423)

将軍の地位にありながら、実権を父・義満に握られていた義持は、将軍就任当初から義満の行き過ぎた政策に不満を持っていました。義持は、義満の死後、その政策を取捨選択しました。

まず、義満の敷いた独裁政治を辞め、管領をはじめとする有力守護たちの意見を尊重する室町幕府本来の政治体制に戻しました。1411年には朝貢形式をとる日明貿易も屈辱的だとして中断し、1419年には明との国交も断ちました。

義持自身は、義満の政策を弱めるつもりでしたが、逆に義満の力で抑えられていた問題が表面にふき出してしまう結果となりました。

1416年、関東では鎌倉公方足利持氏に対し、関東管領だった上杉禅秀が反乱を起こし(上杉禅秀の乱)、1419年には倭寇の海賊行為に堪えかねた朝鮮が倭寇の根拠地のひとつであった対馬長崎県対馬市)を襲撃する事件も起きました(応永の外寇)。

こうした状況に義持はなす術がなく、1428年に将軍職を子の義量に譲った後に、身の安全を確保するべく出家しました。

 

父から禁酒令を出された将軍

5代将軍 足利義量(在位期間:1423~1425)

1423年に5代将軍となった義量でしたが、義量はかなりの大酒飲みで、前将軍で父親でもある義持から禁酒令を出されたほどでした。したがって、義量はまともな政治が出来ず、健康を害した後にわずか19歳で亡くなりました。やむを得ず、義持が出家したまま政務を執ることになりましたが、そんな義持も1428年に亡くなりました。

義持は亡くなる直前、次の後継者を指名してほしいと要請する重臣たちに向かって、「指名しても、みなの助けがなければ幕府は成立しえない。管領以下の人々が相談して決めるように。」と言い残しました。

そこで、重臣たちは相談して、義持の4人の弟のなかからクジ引きで次の将軍を選出することにしました。こうして6代将軍となったのが足利義教でした。

 

室町幕府の歴代将軍の紹介特集はつづきます。

 

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社

テーマ別だから理解が深まる   日本史  山岸良二=監修

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著  宝島社