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【鎌倉時代】荘園の仕組みと年貢制度はどのように変化したのか

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【鎌倉時代】荘園の仕組みと年貢制度はどのように変化したのか」というテーマでお伝えしたいと思います。

 

鎌倉時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか。

鎌倉時代は、貴族、僧、武士、庶民と、身分の差がはっきりしていました。なので、それぞれの暮らしには大きな違いがありましたが、多くの人々の生活や経済基盤は荘園のうえに成り立っていました。

荘園がどのようにして人々のくらしと結びついていたのかを見てみましょう。

平安時代の後期から鎌倉時代にかけて、全国各地の村々の多くは、皇族・貴族や大寺社などの所有地である荘園となりました。荘園では農民のほか漁民や山の民など、様々な仕事に携わる人々が暮らしていました。

貴族や寺社は荘園領主として、彼らの納める年貢で支えられていました。しかし、実際に税を取り立てていたのは、地頭や荘官(荘園の管理者)など荘園で暮らしていた武士たちでした。武士の多くは、自分が開発した土地を貴族や寺社に寄進し、自らは荘園の管理者となりました。そして、とりたてた年貢のうち、決められた量を、荘官荘園領主へ、地頭は幕府へとおさめ、のこりを自分たちのものにしました。

 

荘園の住民は、およそ4つの階層に分かれていました。朝廷方は、荘園領主荘官(武士)・名主・小作人の4階層で、幕府方は、幕府・地頭(御家人)・名主・小作人の4階層です。

 

荘園領主は、荘園を名とよばれたいくつかの土地に区分し、その経営を名主と呼ばれる有力農民に任せました。名主たちは土地の一部を直営地とし、のこりの土地を小作人に貸して耕作を請け負わせました。数のうえでもっとも多かったのがこの作人で、身分のうえからは百姓とよばれました。百姓のなかには手工業者など農業以外の仕事に携わる人々も含まれています。

その他には、下人または所従とよばれる人々がいました、彼らは荘官や地頭、名主らのもとで家事や耕作などのために使われ、百姓のような自由はありませんでした。

 

荘園領主が農民らにかける年貢は、名主がまとめて納入する責任を負いました。

年貢として徴収される物は荘園ごとに様々で、米のほか、絹・布・油・紙・塩・木材なども年貢としてとられていました。中には、特産品・高級品である馬・牛・金・漆(塗料)・筵(敷物)・鮭などを納める荘園もありました。しかし、全体としてみてみると、米・絹・布の3つが代表的な品目です。

年貢の種類は荘園ごとに様々であると述べましたが、東国と西国とでは、はっきりとした違いがありました。西国の荘園では米の年貢が一般的だったのに対し、越中富山県)・美濃(岐阜県南部)・尾張(愛知県西部)あたりから東に位置する東国の荘園では、ほとんどが絹・布などの繊維製品を年貢としていました。理由として考えられるのは輸送条件の違いです。米は重い荷となるので、瀬戸内海などの海上交通を利用できる西国で年貢として取られました。一方、東国は海上交通よりも陸上交通のほうが効率が良いので、荷の軽い繊維製品が年貢とされていました。また、東国では畑作が多く、西国では稲作が多いという生産のあり方も関係していたとみられています。

農民らは年貢をおさめる以外にも、公事や夫役など、様々な名目の税をかけられました。公事とは、年貢以外の雑税のことで、果物や野菜などの山の幸や、魚などの海の幸を納めさせました。夫役とは、労役のことです。公事・夫役は荘園領主からも地頭や荘官からも求められ、農民たちは二重の負担を強いられました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社