日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【室町幕府】室町幕府のしくみをわかりやすく

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【室町幕府室町幕府のしくみをわかりやすく」というテーマでお送ります。

政治機構としての室町幕府は、3代将軍・足利義満の頃に整えられ、有力守護が将軍を支えて政治を行うしくみがつくられました。

まず、幕府のトップが将軍ですが、鎌倉幕府は源氏でしたが、室町幕府では、足利氏になります。

次に、将軍を補佐し、様々な機関を統括する幕府のナンバー2ですが、鎌倉幕府では執権であり、北条氏一族のみが担当しているのに対し、室町幕府では管領と呼ばれ、有力守護で足利氏一門(親戚)の細川氏・斯波氏・畠山氏の3氏が交代で就き、彼らは三管領と呼ばれました。

その理由は、かつての鎌倉幕府の北条氏のように、ナンバー2機関が将軍をしのぐ権力を振るうことがないようにするためです。幕府の実力者である3氏を交代でつとめさせることで、権力の独占を防ぐ狙いがあったのです。

中央には鎌倉幕府にならって侍所・政所・問注所が置かれました。しかし、室町幕府のその機能は、鎌倉幕府のものとは違いました。侍所は、京都市中の警備や治安維持にあたりました。侍所の長官は、管領に次ぐ非常に重要な役職で、山名氏・赤松氏・京極氏・一色氏の4氏(四職)のうちから1人が任命されました。

政所は、将軍家や幕府の財政を取り扱い、その長には主として伊勢氏が任命されました。

問注所は訴訟記録や文書の保管・管理を行い、実際の裁判は評定衆とその下の引付が担当しました。

地方については、幕府の管理の届かない東北、関東、九州にそれぞれ幕府の出先機関が置かれました。

東北地方は陸奥国出羽国に分けられ、それぞれに奥州探題羽州探題が置かれました。

 

関東には鎌倉府が置かれました。これはかつての鎌倉幕府そのもので、鎌倉幕府を倒した足利尊氏は悩んだ末、室町幕府を京都に起き、政権の中心を再び関西に移す代わりに、幕府の出先機関として鎌倉幕府を存続させたのです。そんな鎌倉府の長官は、鎌倉公方とよばれ、足利尊氏の3男・基氏がつとめ、以降その子孫に引き継がれていきました。鎌倉公方が治めたのは、関東8か国()に伊豆(静岡県伊豆半島)と甲斐(山梨県)の2か国を加えた10か国で、関東人は鎌倉府をかつての鎌倉幕府に見たて、忠誠を誓いました。その後、奥州探題羽州探題の管轄も任され、幕府から独立した動きを示すようになります。鎌倉公方を支えたのは、関東管領という職で、上杉氏が担当し、やがて上杉氏が鎌倉府で実権を握るようになります。

 

九州のおさえとして置かれたのは九州探題でした。鎌倉幕府のときは鎮西奉行(成立当初)・鎮西探題(蒙古襲来後)でしたが、室町幕府では九州探題になるので注意が必要です。九州探題では今川了俊が九州をたくみに統治しましたが、義満は了俊の勢力が強くなるのを恐れて解任したため、しだいに有力守護が探題の命令に従わなくなりました。

 

そして、諸国には鎌倉時代に引き続き、守護と地頭が置かれていました。特に守護の権力は南北朝の動乱のなかで強大となり、守護大名とよばれるようになりました。鎌倉時代の守護は大犯三カ条とよばれる3つの権限を与えらているに過ぎませんでしたが、室町時代の守護には、武士達に臨時の経済的給付を行う半済令や、荘園年貢を守護が請け負う守護請、苅田狼藉の追捕兼や使節遵行権などが与えられていました。

(大犯三カ条・・・・謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕・その国の御家人たちを指揮命令して京都に上らせる大番催促の3つの権限のこと。)

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

早わかり  日本史    河合敦=著  日本実業出版社

教科書よりやさしい日本史   石川晶康=著   旺文社