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【室町幕府】足利歴代将軍をわかりやすくご紹介【6代~9代】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【室町幕府】足利歴代将軍をわかりやすくご紹介【6代~9代】」というテーマでお伝えします。

今回は以下のような室町幕府の6代~9代将軍の活躍や功績をご紹介していこうと思います。

3代将軍・足利義満の頃に全盛を迎えた室町幕府は、その後、やや停滞気味となり、強権的に政治を推し進めることで、幕府の権威を回復しようとしました。しかし、やがて日本全体を戦国時代へと突入させてしまった悪名高き「応仁の乱」が勃発してしまいました。

・クジ引きで選ばれた恐怖の将軍

  6代将軍 足利義教(在位期間:1429~41)

・幼くして没した短命将軍

  7代将軍 足利義勝(在位期間:1442~43)

・側近たちの政治介入が裏目

  8代将軍 足利義政(在位期間:1449~73)

・幕府再建に尽力

  9代将軍 足利義尚(在位期間:1473~89)

 

クジ引きで選ばれた恐怖の将軍

6代将軍 足利義教(在位期間:1429~41)

 前将軍の足利義持が、「次の将軍は皆で話し合って決めるように」と遺言を残したため、次の将軍は義持の4人の兄弟のなかから選ぶことになりました。話し合いの末、クジ引きで決めることにしました。当時、クジ引きには、「神の意志を問う」という意味があり、選ばれた者は、人知(じんち)を超えた神の意志で選ばれたことになり、選ばれなかった者の不満を抑えることが出来ると考えたからです。栄えある当選者は、義教に決まりました。

 義教は、当初、重臣たちに政務を委任していましたが、やがて独裁体制をしくようになり、兄・義持の時代に停滞気味だった室町幕府の政治の再強化を図りました。具体的には義持の時代に途絶えていた日明貿易を復活させ、比叡山延暦寺を屈服させ、その他にもささいな理由で意にそわない貴族や大名を次々と抹殺していきました。

 1439年には鎌倉公方足利持氏を自害に追いやっています(永享の乱)。しかし、このような苛酷な粛清が家臣たちを疑心暗鬼にし、領地を没収されて殺されると思い込んだ播磨の守護大名・赤松満祐によって、義教は謀殺されてしまいました。

 

幼くして没した短命将軍

7代将軍 足利義勝(在位期間:1442~43)

前将軍・足利義教が急逝したため、その長男・義勝がわずか10歳で7代将軍に就任しました。しかし、もともと病弱だった義勝は在位8カ月で天折。したがって、特記すべき功績はほとんどありません。しかし、政治面では義教の弔問として訪れた朝鮮通信使と対面したこと。文化面では、10歳のときに描いた達磨図が残っています。将軍の後を継いだのは、義勝の弟の義政でした。

 

側近たちの政治介入が裏目

8代将軍 足利義政(在位期間:1449~73)

兄・義勝が天折したため、義政は棚ぼた式に将軍に就任しました。就任当初はわずか13歳でした。義政といえば、日本を戦国時代へと突入させるきっかけとなった応仁の乱を引き起こした将軍ですが、その原因は、義政の正妻である日野富子だったのではないでしょうか。

室町将軍は代々、日野氏から正妻を迎えることになっており、義政も例にたがわず、20歳のときに16歳の富子と結婚しました。

また、義政の政治は、6代将軍・足利義教の強権政治の反省から、乳母や実力者、そして正妻などの側近たちの合議のうえで進められることとなりました。そのため、義政は将軍就任当初から政務に無関心で、贅を尽くした山荘の新築や、猿楽見物や見物山遊と、文化に熱中する生活を送っていました。一方で、義政と富子のあいだには世継ぎとしての男児が生まれない状況でした。

そんな義政は、次期将軍には弟の義視にするとしていました。義政としては早急に引退して優雅な生活が送りたかったのでしょう。

ところが、結婚後10年して富子が男児(義尚)を出産しました。富子は義尚を次期将軍にしたいと願うようになりました。

しかし、すでに次期将軍は義視に決まっています。それを富子は強引に息子の義尚を将軍職につけようと幕府の実力者である山名持豊(宗全)に接近しました。これに対して義視方は、元管領細川勝元に助力を求めるようになり、大規模な跡目争いへと発展しました。

しかし、義政はこの問題を解決しようとはせず、やがて畠山氏と斯波氏のそれぞれの家督争いも加勢してしまい、そして畠山氏の家督争いがきっかけとなって京都で戦闘が起こりました。東西南北全国各地から25万以上の大軍勢が京都に雲集し、ひしめきあって二手に分かれ衝突を始めたのです。これが1467年に始まる応仁の乱です。

乱の勃発後、一年もたたないうちに京は完全に焼け落ち、1473年に細川勝元山名持豊がともに死去した後も争いは終わらず、1477年にようやく両軍は戦いを辞めました。

しかし、その後の室町幕府の権威は失墜し、下剋上の風潮が強まり、戦乱は全国的に波及していく結果となりました。

 

幕府再建に尽力

9代将軍 足利義尚(在位期間:1473~89)

 応仁の乱のさなか、9代将軍に就任したのは富子の子である義尚でした。しかし、義尚はまだ8歳だったため、政治を行えず、実権は父・義政が握っていました。しかし、その義政が全く政務を行わず、政治は乱れる一方で、しびれを切らした、義尚は15歳になった時点で、伴始め(政務始めの儀式)を行い、全国に自立をアピールしました。

 しかし、その後も中々実権を譲らない父・義政に対し、義尚は遂に出家するぞと脅しました。こうして父から実権を獲得した義尚は、失墜した将軍の権威を回復させるべく、乱れた政治を何とか再建しようとしました。

 応仁の乱以降、世間では下剋上の風潮が強まり、近江国滋賀県)の六角氏が幕府をないがしろにし、成り上がろうと目論みました。義尚は、そんな六角氏を征伐するために自ら近江国に出兵しました。しかし、思わぬ長期戦を強いられた挙句、義尚は陣中で25歳の若さで病死してしまいました。

 さらに、義尚には兄弟も子供いなかったため、結局、前将軍の義政が代わりに政務をとることになりました。しかしその義政も翌1490年に死去したため、将軍の位にはポッカリと穴があく結果となりました。

 この義政・義尚の治世下で、それまで幕府を支えてきた功臣たちも相次いで亡くなっており、幕府の基盤は恐ろしく脆弱なものとなっていきました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社

テーマ別だから理解が深まる   日本史  山岸良二=監修

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著  宝島社