日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【室町幕府】足利歴代将軍をわかりやすくご紹介【10代~15代】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【室町幕府】足利歴代将軍をわかりやすくご紹介(11代~15代)」というテーマでお伝えします。

今回は以下のような室町幕府の10代~15代将軍の活躍や功績をご紹介していこうと思います。

8代将軍・足利義政のときに勃発した応仁の乱によって、室町幕府の衰退がはじまりました。この頃の室町幕府は、事実上、細川氏が強い実権を握っていたため、細川幕府と呼ぶこともあります。さらに、三好氏や松永久秀、そして織田信長の台頭など、室町将軍はもはや名ばかりとなってしまいました。やがて室町幕府は、各地で起こる守護大名戦国大名の勢力争いに巻き込まれ、多くの将軍が不幸な最期を遂げていきました。

 

・史上初、2度将軍になる

  10代将軍 足利義材(義稙)(在位期間:1490~93、1508~21)

・生涯にわたり義稙と争う

  11代将軍 足利義澄(在位期間:1494~1508)

・政情不安が続いた長期政権

  12代将軍 足利義晴(在位期間:1521~46)

・聡明かつ剣豪だった名交渉人

  13代将軍 足利義輝(在位期間:1546~65)

・在位7カ月、一度も京に入れず

  14代将軍 足利義栄(在位期間:1568)

・信長包囲網を築いた最後の将軍

  15代将軍 足利義昭(在位期間:1568~73)

 

史上初、2度将軍になる

室町10代将軍・足利義材(義稙)(在位期間:1490~93、1508~21)

1490年に10代将軍に就任した足利義材は、かつて義尚と将軍の跡継ぎを争った足利義視の子供です。義材は、応仁の乱が勃発した際に、父・義視とともに亡命していました。そんな義材は、日野富子に擁立されて将軍に就いたのです。

しかし、幕府では応仁の乱後、細川氏管領職を独占しており、義材は将軍にありながら、実権は管領細川政元に握られていました。

そんな状態ですから、結局、義材は富子や政元と対立するようになり、義材は1493年に出陣のために京都を離れたすきに、政元に将軍職を廃されたのちに、京都の竜安寺に幽閉されてしまいました(明応の政変)。以降、義材は諸国を流浪する生活を送ります。

 

生涯にわたり義稙と争う

室町11代城軍・足利義澄(在位期間:1494~1508)

 足利義材を幽閉した後に、富子と政元は、関東から堀越公方足利政知の子である足利義澄を京に連れてきて、1494年に11代将軍としました。義澄は義材の従兄弟にあたります。しかし、幕府の実権は政元が握っており、義澄は名目だけの将軍でした。

 そんな政元でしたが、女人禁制の修験道に傾倒していたため、実子がおらず、3人の養子(澄元、澄之、高国)が後継ぎをめぐって争いを始め、政元は暗殺されてしまいました(永正の錯乱)。

 一方、前将軍・足利義材は再度将軍に就こうと京都を脱走し、周防国山口県)の大内義興を頼るようになります。大内氏は、全盛期には日明貿易を独占しており、その結果、領国は大いに潤い、栄えていました。その勢力は、義材を保護し、彼を担いで上洛を果たせるほどのものでした。

 そして1508(永正5)年、義材を奉じた大内義興は、細川氏の後継ぎ争いを制した細川高国と組んで、大軍勢を率いたうえで上洛を果たし、義澄を駆逐しました。こうして上洛を果たした義材は「義稙」と改名して、再度将軍に返り咲きました。

 京都を追われた義澄は、たびたび京都の奪回を図るも、結局は果たせず、遂に近江国滋賀県)で死亡しました。

 一方、義稙のほうも、結局は細川高国と仲たがいした後に、淡路国に出奔。直後に行われた後柏原天皇即位式に出仕しなかったため、義稙はすっかり信用を失い、1521年には高国によって将軍職を解任されてしまいました。

 

・政情不安が続いた長期政権

12代将軍 足利義晴(在位期間:1521~46)

 義稙に代わって1521年に12代将軍に就任したのは、義澄の子である足利義晴でした。義晴は就任当初、まだ10歳だったため、政治は細川高国らが中心となって行いました。この時代になると、室町幕府の権威もすっかり地に落ちており、高国は幕府を守るために将軍直属の奉公衆を強化しました。

 1526年、そんな細川家で内紛が起こり、高国と細川六郎が対立をはじめました。最初に挙兵したのは六郎の方で、1527年、六郎は堺公方足利義維を擁立して挙兵しました(桂川原の戦い)。この戦いで高国は敗北を喫し、六郎が幕府の実権を握ることになりました。一方、将軍・義晴は高国を伴い、近江国に逃亡しました。しかし、奉公衆や幕臣の多数は義晴側の味方になっており、朝廷や地方大名との関係も維持されていました。

 こうした状況だったので、幕府の乗っ取りに成功した六郎も、結局は京都を追われ、その煽りを受けた義維も阿波国徳島県)の平島に逃れました。以降、義維は平島公方として、細川氏重臣・三好氏にかくまわれるのでした。(この義維の遺児が、この後の14代将軍に就任します。)

 こうして京都を奪還した義晴でしたが、細川氏重臣だった三好氏が下剋上現象によって台頭し、やがて義晴は三好長慶によってたびたび京都を追われるようになります。幕府の実力者だった細川氏の実権は、この頃になると、家臣の三好氏に握られていたのです。

 その後、義晴は京都を奪還しては追われを繰り返し、その結果、将軍在位期間は、この時期には珍しい25年間という長期間に及びました。そんな長期政権を維持した義晴でしたが、1546年に近江国で自害に追い込まれました。

 

・聡明かつ剣豪だった名交渉人

13代将軍 足利義輝(在位期間:1546~65)

 義晴を追放した長慶は、自らが擁立した義晴の子・足利義輝を13代将軍に就任させました。義輝は様々な兵法を学んでいる剣豪であり、かつ聡明で、交渉手腕にも長けており、織田信長上杉謙信武田信玄などの地方大名と親交を結び、大名間の争論を仲介し、功労者には位階を授けるなど幕府としての権威を復活させたかに思われました。

 しかし、義輝も名目だけの将軍であり、幕府の重臣となった長慶の傀儡将軍でした。そんな状況ですから、やがて義輝は長慶を排除しようとしますが、逆に義輝が京都を追放されてしまいます。

 その後、義輝は何とか長慶と和解し、京都に戻るも、やはり長慶の傀儡将軍でした。

 先ほど、三好氏が主君の細川氏を凌ぐようになったと述べましたが、下剋上現象はこれだけではありませんでした。というのは、三好氏の家臣だった松永久秀も次第に頭角を現すようになり、主人である三好氏を上回るほどの実力者に成り上がっていきたからです。

 そんななか、長慶が死ぬと、義輝は再度、幕府を立て直そうと奔走しました。具体的には反発する松永久秀を打倒するために地方の有力大名に協力を要請していたのです。その動きを察知した久秀は、先手を打って将軍殺害という思い切った手段を決行しました。

 そして義輝は、松永久秀や三好義継らによって屋敷を襲撃され、自害を余儀なくされました(永禄の変)。このとき義輝は、寄せ来る数十人の敵を斬殺するほどの剣豪ぶりを発揮し、刀が刃こぼれすると、あらかじめ畳に忍ばせておいた刀と交換して再び敵と対峙したと伝えられています。

・在位7カ月、一度も京に入れず

14代将軍 足利義栄(在位期間:1568)

 義輝を殺害後、松永久秀三好三人衆三好長逸三好政康・岩成友道)と結託し、義輝の従兄弟にあたる義栄を14代将軍に就任させました。義栄は、三好三人衆によってかくまわれていた足利義維の遺児でした。しかし、義栄は久秀や三好氏の傀儡将軍で、京に入ることすら出来ない名目上の将軍でした。久秀は、将軍を攻め滅ぼしながらも、将軍の権威を必要としたことから、幕府を滅ぼさずに傀儡将軍を就任させたのです。

 やがて、久秀と三好三人衆も対立するようになり、一進一退の攻防を繰り広げましたが、1568年に尾張国織田信長の軍勢が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してきたため、両者は停戦を余儀なくされました。

 久秀は信長方に帰属することを許可されたことから、三好三人衆は将軍・義栄を伴って京都から追い払われました。義栄は、阿波国に逃れた後に、間もなく病死しました。

 

・信長包囲網を築いた最後の将軍

15代将軍 足利義昭(在位期間:1568~73)

 信長の助力を得て15代将軍に就任した義昭は、幕府の再建を目指して意欲的に政務を行いました。義昭は信長を「余の父上」と位置づけ、感謝したとそうです。

 しかし、やがて信長に行動を制限されるようになったため義昭は不満を持つようになりました。義昭もまた、信長に天下を狙うための権威付けとして利用されただけだったのです。義昭は、武田信玄毛利輝元などの各地の有力大名と密約を交わして信長包囲網を形成し、「打倒・信長」をはかります。しかし、そのリーダー格であった武田信玄が病死したことで包囲網は瓦解。それでも諦めなかった義昭は、今度は兄を殺した憎き敵であるはずの松永久秀らと手を組んで挙兵し、公然と信長に対抗しました。しかし、残念ながら結果は敗北。1573年、捕らえられた義昭は、命こそ助けられたものの、京都を追い出されてしまいました。ここに室町幕府は滅亡したのでした。

 しかし、義昭が正式に征夷将軍を辞したのは、1588年のことです。信長が1582年に本能寺の変で横死したことを考えると、それまで室町幕府は健在だったことがいえそうです。義昭は信長が死んだという知らせを聞くと、「天罰が下ったのだ」と喜んだとされています。

 その後、信長の家臣だった豊臣秀吉によって天下が統一され、義昭は、豊臣政権の御伽衆(おとぎしゅう)として政界に復帰することとなりました。

 御伽衆とは、政治顧問のようなもので、農民出身だった秀吉に対し、政治的なアドバイスをする役職です。秀吉によって、かつての権力者や著名人の多くが御伽衆として起用され、義昭は、そんな秀吉のブレーンの一人として優雅な余生を過ごしたそうです。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社

テーマ別だから理解が深まる   日本史  山岸良二=監修

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著  宝島社