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【足利8代将軍】なぜ足利義政は応仁の乱を引き起こしてしまったのか【足利義政】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【足利8代将軍】なぜ足利義政応仁の乱を引き起こしてしまったのか【足利義政】」というテーマでお伝えしたいと思います。 

 1467年、東西南北全国各地から25万以上の大軍勢が京都に雲集し、東軍16万、西軍11万の2つの勢力に分かれ、衝突を始めました。「応仁の乱」の勃発です。京都は瞬く間に火の海と化し、戦乱は11年も続き、京都は完全に焦土と化してしまい、以降、日本は戦国時代へと突入するのでした。

 応仁の乱といえば、時代を「戦国の世」へと導くきっかけとなってしまった悪名高い内乱ですが、応仁の乱はなぜ起きてしまったのでしょうか。その原因を作ったのは、一組の夫婦でした。室町幕府8代将軍・足利義政と、その正妻・日野富子です。

 今回は、応仁の乱の原因の一つである義政の後継者問題についてストーリーを展開していきながらみていくことにしましょう。

 

 1441年、強権政治を展開した室町幕府6代将軍・足利義教が播磨の守護大名・赤松満祐に暗殺されるという重大事件が起こりました(嘉吉の変)。幕府はすぐに討伐軍を送り、赤松を討ちました。このとき功績を上げたのが山名持豊(後に出家して宗全となる)の一族でした。その恩賞として赤松氏の領地であった播磨・備前・美作が山名氏に与えられ、山名は、細川や畠山、斯波といった管領家に並ぶ実力ある守護大名へと成長しました。

 義教亡き後、その長男である義勝が1442年に7代将軍に就任しました。しかし、もともと病弱だった義勝は翌1443年にわずか10歳で天折。代わりに義勝の弟である義政が1449年に13歳で8代将軍に就任しました。

 義政の政治は、6代将軍・義教の強権政治の反省から、将軍の側近たちの合議体制のうえで進められることになりました。合議体制は、室町幕府の本来の政治体制でしたので、特に問題ないように思えます。しかし、その中には幕府の実力者以外にも、義政の母や乳母、そして正妻なども含まれていました。

 まず、幕府の実力者ですが、管領家は、斯波・畠山・細川の3氏が順番で担当していました。これに加えて義政の母の日野重子、乳母の今参局(いままいりつぼね)、やがて妻となる日野富子、さらには幕府の財政を握っていた政所執事伊勢貞親らの政治介入も目立つようになってきました。こうした側近たちの積極的な政治介入が裏目に出る結果となるのです。

 一方の義政は、ほとんど名目だけの将軍となり、贅を尽くした山荘を築き、猿楽見物や見物山遊を繰り返すなど、政治には全く関心を示しませんでした。

 そんな義政も20歳になると、日野氏から正妻を迎えました。室町将軍は代々から日野氏から正妻を迎えることになっており、義政も例にたがわず、16歳の日野富子と結婚したのです。

 しかし、義政と富子の夫婦仲は悪く、数年経っても富子は世継ぎを生みませんでした。そこで、義政は、弟ですでに僧侶となっていた義尋(ぎじん)を自分の後継者にするとしました。義政は義尋を武士に戻らせて義視と名乗らせ、養子として後継者にしようとしました。義政としては早急に将軍職を譲り、隠居して山荘で優雅な生活を送りたかったのでしょう。

しかし、義視は当初、これを断りました。

「兄さんも、今後、世継ぎとしての男児が生まれることでしょう。そうなれば、私は邪魔者になるでしょう。最悪の場合、命も危ない。」

 当時、義尋のような高僧であれば、かなり豊かな暮らしが出来、命を狙われることもありませんでした。義尋としては、命の危険を冒してまで義政の養子になろうと思わなかったのです。

そんな義視に対し、義政は約束しました。

「そんなことはないから安心しなさい。もし男児が出来ても、出家させるから大丈夫。」

 その後も、義政からの説得によって、1464年、義視は遂に、当時の幕府の実力者である細川勝元を自分の後見人(証人のような人)にすることを条件で義政の養子に入ることを承諾しました。

 この時点で、後継ぎが決まったわけなので、義政は子供を作ってはいけませんでした。

 ところが、である。結婚10年目となった義政と富子のあいだに男児足利義尚)が生まれてしまいました。そして案の定、富子は息子の義尚を次期将軍にしたいと口出しするようになりました。

 しかし、すでに次期将軍は義視に決まっています。それを富子は強引に義尚を将軍職につけようと、細川氏と肩を並べるほどの実力者となっていた山名宗全(持豊)に接近し、宗全を義尚の後見人としました。

 また、1466年には義尚に将軍を継がせたいと願う伊勢貞親らが義視の暗殺を企てましたが、事前に発覚したため、貞親らは幕府から追放されました。

 これに対して、義視は、後見人である細川勝元とともに、義尚方と戦う姿勢を示しました。ここに、足利義視細川勝元と、足利義尚山名宗全との対立が決定的となり、その溝は埋めがたいものとなってしまいました。

  本来であれば、ここで義政が、正式な後継者をどちらにするのか決めればよかった。どのみち争いの種は残ると予想されますが、一応の収束は出来たはずです。しかし、義政は山荘に引きこもり、趣味に没頭してしまうのでした。

 そんなことをしているうちに、やがて畠山氏と斯波氏の両管領家における後継者争いも加勢し、室町幕府は2つの勢力に分裂してしまいました。

以下は、その対立構造です。

東軍足利義視(将軍の弟)/細川勝元畠山政長斯波義敏大内氏/赤松氏/武田氏/京極氏など(約16万の兵力)

西軍足利義尚(将軍の子)/日野富子山名宗全畠山義就/斯波義簾/一色氏/土岐氏/六角氏など(約11万の兵力)

そして1467年1月、畠山政長畠山義就の軍勢が京都の上御霊社(京都市上京区)のそばの御霊林で戦いが始まりました。

さらに、細川方(東軍)の赤松正則が播磨国へ侵攻し、山名氏から同国を奪還する戦いも起こりました。冒頭で触れた「嘉吉の変」の逆襲です。

これらの戦いがきっかけとなり、同年5月、細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍の軍勢が京都に集まり、両軍は激しくぶつかり合いました(応仁の乱)。

しかし、この応仁の乱は途中から、義視が山名方(西軍)に鞍替えし、義尚・富子が細川方(東軍)に鞍替えするというという現象が起こりました。こうなってくると、「なぜ戦っているのか」、「誰が味方で打ち倒す相手は誰なのか」という当事者さえも理解できないような複雑な状態になっていきます。こんな当初の目的もわからない、敵味方が入り乱れる戦いが11年も続いてしまいました。

さらに悲惨なのは主な戦場が京都だったということです。京都は焦土と化し、平安時代からある建物が焼かれ、仏像は破壊され、経典や書籍なども灰となってしまいました。

応仁の乱が終わり、夫婦仲はすっかり悪くなってしまった義政は、富子と別居して趣味三昧な生活に入りました。銀閣の造営にも力を入れ、幕府の財源を自分の趣味につぎ込みました。

今回は、応仁の乱が起きた原因について、将軍後継者問題をとりあげました。応仁の乱は、義政の不手際や優柔不断さが招いた悪名高い内乱と言われていますが、そもそも義政は将軍就任当初から、父・義教のような強権政治を敷かないように政治からは遠ざけられていました。そして合議体制による政治を進めるために、管領家の他にも多くの側近たちを政治に介入させたことが裏目に出る結果となってしまったのです。

それに対して政治力を育成されなかった義政は、何もしなかったし、何も出来なかった。そういう意味では、父のようにしないために育成された義政は、父親以上のモンスター将軍となってしまったといえるのではないでしょうか。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

あの偉人たちにも黒歴史!? 日本史100人の履歴書  矢部健太郎=監修 宝島社

早わかり 戦国史  外川淳=編著  日本実業出版

1日1ページ読むだけで身につく日本の教養365   斎藤孝=監修 文響社

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著  宝島社

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社