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【足利6代将軍】クジ引き将軍の不都合な真実とは?【足利義教】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【足利6代将軍】クジ引き将軍の不都合な真実とは?【足利義教】」というテーマでお伝えします。

 今回の主人公は、室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)です。しかし、この将軍、小中学校の教科書には出てこず、高校の日本史でも名前程度しか出てきません。そのため、世間での知名度は非常に低いでしょう。

 しかし、この将軍、知名度の割には、特記するべき政策や出来事が多いです。

 独裁政治を敷き、貿易に熱心で、比叡山延暦寺を焼き討ちし、言うことを聞かない守護大名を次々に滅ぼしていきました。その結果、有力守護で重臣でもある赤松満祐に暗殺されてしまいました。

 これと似た実績を持つ者が戦国時代に現れています。織田信長です。信長といえば、時代の破壊者であり、先駆者というイメージが強いですが、じつのところ、信長以前に、足利義教という独裁者が現れているのです。

 参考までに2人の実績をまとめてみました。

足利義教/独裁政治を展開/日明貿易を復活させる/比叡山延暦寺の焼き討ち/意に沿わない有力守護の追放・暗殺/有力守護で重臣の赤松満祐によって急逝する。

織田信長/独裁政治を展開/貿易に活路を見出す/比叡山延暦寺の焼き討ち/無能な家臣を追放/重臣であるはずの明智光秀によって急逝する。

 このように足利義教とは、織田信長と同等かそれ以上の実績を持ち、似たような最期を遂げているのです。

 にもかかわらず、足利義教の独裁者としてのイメージは定着していません。織田信長の独裁神話は、足利義教という「不都合な先駆者」に守られているといえるでしょう。

では、そんな義教の政治的実績を信長のそれと比較しながら見ていこうと思います。

 

 1394年、義教は、室町幕府3代将軍・足利義満の5男として生まれました。そのため、義教は本来ならば、将軍の座にはほぼ就けない状態でした。

 同年、義教の兄・足利義持室町幕府4代将軍に就任しました。しかし、実権は父・義満に握られており、義持はそんな父に不満をもっていました。そんな義持は、義満の死後、その政策を取捨選択しました。

 まず、義満の敷いた独裁政治を辞め、管領をはじめとする有力守護たちの意見を尊重する室町幕府本来の政治体制に戻しました。1411年には朝貢形式をとる日明貿易も屈辱的だとして中断し、1419年には明との国交も断ちました。

 そんな義持は1423年、息子の義量に将軍職を譲るものの、義量はかなりの大酒飲みでした。そのせいか義量はまともな政治が出来ず、健康を害した後にわずか19歳で亡くなりました。やむを得ず、義持が出家したまま政務を執ることになりましたが、そんな義持も1428年に亡くなりました。

 義持は亡くなる直前、次の後継者を指名してほしいと要請する重臣たちに向かって、「指名しても、みなの助けがなければ幕府は成立しえない。管領以下の人々が相談して決めるように。」と言い残しました。

 そこで、重臣たちは相談して、義持の4人の弟のなかからクジ引きで次の将軍を選出することにしました。当時、クジ引きには、「神の意志を問う」という意味があり、選ばれた者は、人知(じんち)を超えた神の意志で選ばれたことになり、選ばれなかった者の不満を抑えることが出来るのです。

 重臣たちは、源氏の氏神(うじがみ)である石清水八幡宮(京都)の意志をクジで問いました。このときには、管領畠山満家が神前で将軍候補の4人の名前をクジ書いたクジを引き、義持の死後の直後に重臣たちの前で開封されました。

栄えある当選者は、足利義教でした。

しかし、このとき義教はすでに出家しており、青蓮院門跡の僧侶で、義円(ぎえん)という名前でした。義円は、義教と改名したうえで、室町幕府6代将軍に就任しました。

 

以後、義教はクジ引き将軍のイメージとは正反対の強権政治を行うようになります。兄・義持の時代に停滞気味だった室町幕府の政治の再強化を図ったのです。

まず、足利義教が行ったのは、幕府の経済基盤の強化で、義持の時代に途絶えていた日明貿易を復活させました。織田信長も交易には熱心でしたが、先駆である義教もまた交易に活路を見出していました。

義教の強権政治が発揮された最初の例は、比叡山延暦寺の焼討ちでした。中世は多くの寺社が時の権力者に服従するどころか、「独立国」のような様相を呈していました。比叡山延暦寺はその代表でした。したがって、権力者が己の政権を安定させたいなら、延暦寺をはじめとする寺社勢力を抑え込む必要がありました。

足利義教の対決姿勢は、延暦寺による園城寺焼き討ち事件から始まります。義教は、ここで決断し、1433年、比叡山を包囲し、軍事力でいったんは屈服させました。しかし、比叡山はそののちも反抗的であり、足利義教は翌1434年にも比叡山を包囲し、焼き討ちを仕掛け、そのすえに、比叡山側の代表4名を処刑しました。これに延暦寺側は激怒し、抗議の集団自殺をしたうえ、根本中堂にも火を放ちました。しかし、義教の幕府軍にはまったく無力でした。

織田信長比叡山焼き討ちは、それから1世紀以上も経った後です。比叡山焼き討ちをした信長は、宗教権威に屈しない魔王扱いされていますが、実は初代の攻撃者ではありませんでした。彼のモデルには足利義教があったとしてもおかしくありません。義教は織田信長の先駆者だったのです。

 

延暦寺を屈服させた足利義教は、関東の平定にも乗り出しました。古くから関東は朝廷からの支配に苦しんでおり、独立を願っていました。それは室町時代も同じで、関東は京都の幕府のコントロールから離れようとしていました。

そんな関東を抑え込むべく、室町幕府は鎌倉府を置き、鎌倉公方には足利一族がなりました。それだけに鎌倉公方は室町将軍の地位に興味があり、室町将軍と鎌倉公方の暗闘は絶えませんでした。鎌倉公方は、室町幕府の爆弾と化す恐れがあったのです。

将軍の後継者がクジによって足利義教に決まると、鎌倉公方足利持氏はそれに不満を持ちました。義教よりも自分の方がよほど将軍にふさわしいと思っていたからです。(近年の研究では、将軍決定の際のクジ引きは八百長だった可能性が指摘されています。)

持氏は年号が、正長から永享に改められても正長の年号を使い続け、子供が元服(男子の成人式)のときに室町将軍の名前の一部をもらう習わしがあったのをやめるなど、幕府に対する挑発行為を示すようになりました。関東管領の上杉憲実は、そんな持氏の行為を諫めると、持氏と憲実が対立するようになりました。そのため、1438年、身の危険を感じた上杉憲実は自分の領国である上野国群馬県)に帰ると、これを謀叛とみなした持氏は、遂に憲実を攻めようとしました。これを受けて将軍・義教は、ただちに憲実に援軍を送り、関東・東北の武士達に持氏を攻め滅ぼすよう命じました。

そして、幕府軍に惨敗した持氏は、出家して鎌倉の永安寺に入りました。

憲実は、将軍・義教に持氏の許しを願いました。

しかし、義教は、持氏を殺すように命じました。

塀をはさんで持氏方と憲実方の戦いが繰り広げられるなか、持氏は、これまでと覚悟し、自害しました。最終的には持氏一族は滅ぼされてしまいました。

室町将軍と、鎌倉公方の暗闘は、室町将軍の勝利によって幕を閉じたのです。

その後、関東では1440年に結城合戦が起こります。これは、永享の乱で持氏に味方したため下野国(栃木県)の守護職を奪われた結城氏朝が、持氏の子を担いで起こした反乱です。翌1441年、義教はやはり上杉氏に援軍を送って、これも平定しました。

足利義教は東西に分裂しがちだった日本を統一・安定に導いたのです。しかし、この後、応仁の乱が起きて室町幕府が有名無実となると、関東は中心となる治める支配者がいなくなり、混乱の状態に入ってゆくのでした。

織田信長は、関東を制圧できないままでしたが、一方の義教は、圧倒的な武力で関東をねじ伏せたのです。

義教の独裁体制は、織田信長以上でした。義教は有力守護大名の跡継ぎ決定に口をはさみ、自分の命に従順な傀儡武将に後を継がせようとしました。そして言う事を聞かない大名に関しては殺害までしました。例えば1440年に若狭国福井県南西部)の守護の一色義貫を、さらには伊勢国三重県南東部)の守護の土岐持頼を暗殺し、翌1441年には河内(大阪府東部)など3か国の守護だった畠山持国も追放してしまいました。

織田信長は不出来な家臣・佐久間信盛をせいぜい追放するくらいで有力武将の誅殺などとても出来ませんでした。

義教と信長のもうひとつの共通点は、ともに暗殺に倒れたことです。1441年、言うことをきかない有力守護を次々と暗殺していく義教に恐怖を覚えたのは同じく有力守護大名である赤松満祐でした。

当時、義教は赤松の領地没収に動いていたと噂されており、やがて自分も殺されてしまうことを恐れた赤松は先手を打って義教の暗殺を決めたのです。

1441年のある日、赤松は、義教を京都の邸宅に招き入れ、結城合戦の勝利を祝う宴(うたげ)を開きました。義教の好きな猿楽能が演じられている最中、突然、赤松の家臣たちが現れ、油断していた義教は、あっさりと討ち取られてしまいました(嘉吉の変)。

もちろん、赤松満祐はその1カ月後、幕府に誅殺されました。

嘉吉の変は、赤松満祐の恐怖心から起きた事件とされています。一方の織田信長もまた有力家臣の明智光秀の反逆によって本能寺で絶命しています。しかし、明智の造反は恐怖心からとは断言できず、天皇家や伝統を守るため、はたまた信長に代わって自らが天下をとる野心があったともみられています。

同じ暗殺に倒れても、家臣の恐怖心によって殺害された義教、家臣の野心によって殺された信長とでは、独裁力の差は明らかでしょう。

将軍・義教が殺されたため、幕府はその後、義教の子で8歳になったばかりの義勝を将軍の後継者とし、管領細川持之に補佐させることになりました。

 

今回は、足利義教についてみていきました。

信長以上の強権政治を発揮しながら、なぜ義教の名がふるわないのでしょうか。それは同時代のスターの不在が大きいのではないでしょうか。信長の時代には、今川義元武田信玄上杉謙信浅井長政など、後世にも語り継がれる英雄たちが揃っていました。そして信長の家臣からは天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が輩出されています。

結果的に豪華絢爛となった信長の物語に対し、義教の逸話は非常に地味な物語となってしまいました。

そのため、信長以上の独裁的な実績を残しながら、足利義教の名はくすみ、信長が独裁者の代名詞にさえなっているのです。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本史 誤解だらけの英雄像   内藤博文=著   夢文庫

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社