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【応仁の乱】室町幕府はなぜ東西に分裂したのか【細川勝元・山名宗全】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は、「【応仁の乱室町幕府はなぜ東西に分裂したのか【細川勝元山名宗全】」というテーマでお伝えします。

 

 1467年、東西南北全国各地から25万以上の大軍勢が京都に雲集し、東軍と西軍の2つの勢力に分かれて衝突を始めました。応仁の乱の勃発です。京都は瞬く間に火の海と化し、戦乱は11年も続き、京都は完全に焦土と化してしまった。

 応仁の乱といえば、日本を戦国時代へと導くきっかけとなってしまった悪名高い内乱ですが、応仁の乱はなぜ起きてしまったのでしょうか。

一般的には足利義政の跡継ぎ争いが原因だとされていますが、実際はそうではなかったという説もあります。応仁の乱は、畠山氏と斯波氏の跡継ぎ争いが原因であり、有力大名たちの勢力争いでした。

 

 管領とは、室町将軍を補佐して幕政を統轄する幕府のナンバー2ですが、細川、畠山、斯波の3家が順番に担当していました。

 そんな管領3家の一角を占める畠山家では、畠山持国の死後、子の義就と政長が家督をめぐって対立し始めました。

 同じ頃、もうひとつの管領家の斯波家でも、斯波義敏と義廉(よしかど)の家督争いが起こっていました。

 室町時代は畠山氏・斯波氏だけでなく、どの有力な守護大名でも、家督争いが常に存在していました。これは、鎌倉時代の分割相続が、南北朝時代を経て、所領の細分化を防ぐために単独相続に移行したことが原因でした。父親の財産を後継者が全て相続すると、残りの兄弟は財産を一切相続出来ないわけです。そのため、後継者たちは、その家臣団を巻き込んで常に厳しく対立していました。

 畠山・斯波氏にかわって幕府のなかで勢力をもったのは、管領をつとめた細川勝元と侍所長官をつとめた山名宗全でした。

 細川勝元は、管領3家の一角を占める細川宗家にあたる「細川京兆家」の嫡男として誕生し、幼い頃から惣領となるべく育てられました。幼名は聡明丸で、1442年、12歳のころに細川京兆家の当主となり、7代将軍に就任した足利義勝から一文字もらい「勝元」と名乗りました。

 1445年、父が早世したため、勝元は15歳という若さで初めて管領に就任し、19歳で管領を辞した後も、22歳再度管領に就任し、室町幕府の実権を握り続けました。

 そんな勝元が、34歳になると、管領を辞職し、8代将軍・足利義政の後継者となった足利義視の後見人となりました。義政とその正妻である日野富子のあいだに男児が生まれなかったため、1464年、義政は弟の義視を後継者に決め、義視は勝元を後見人(後ろ盾のようなもの)にすることを条件でこれを引き受けたのです。

 しかし、翌1466年に富子が男児(義尚)を出産し、富子は義尚を将軍に継がせたいと主張するようになりました。しかし、すでに次期将軍は義視に決まっています。それを富子は強引に義尚を将軍職につけようと、山名宗全(持豊)に接近し、宗全を義尚の後見人としました。

 こうして、義視の後見人となった勝元と、義尚の後見人となった宗全との対立が決定的となり、その溝はうめがたいものになりました。

 山名宗全は、室町幕府の侍所をつとめる4家の一角を占める山名氏の嫡男でした。山名氏は、室町時代初期には1族で11国も治めるなど非常に強い力を持っていました。しかし、3代将軍足利義満は「一つの家が大きな力を持っているのは危険だ」として、同族同士で争うように画策。その結果、山名氏はあっという間に没落。領地は3国までに激減してしまいました。

 ここから1段階復活させたのが父の山名時煕のときで、その後を継いだ宗全が、山名氏のかつての栄華を超えた繁栄をもたらしました。きっかけは、1441年の「嘉吉の変」で、播磨国守護大名赤松満祐を討ったことです。当時の6代将軍・足利義教を暗殺した満祐を追いつめ、自害へと追い込みました。こう功から山名家は、道祐の所領を得ることになり、領地と権威を見事に回復しました。

 頭脳明晰で知略に富んだ勝元に対し、宗全は武闘派といったイメージです。山名氏は、本来ならば、政治の中枢にいるような一族ではないのですが、とにかく武力が強いため、多くの守護たちも口出しが出来ずにいました。

 勝元と宗全は、畠山・斯波両家の後継者争いをめぐって、勝元が畠山政長を助けると、宗全は畠山義就の側につきました。さらに勝元が斯波義敏を助けると宗全は斯波義廉を助けるといったふうに、ことごとく対立しました。

 

 細川勝元山名宗全の両陣営が軍勢を集め、すぐにも戦いが起こりそうな状態となりました。このとき両軍が陣を置いた位置から、細川方を東軍といい、山名方を西軍といいます。両陣営には、他にも赤松氏や一色氏、京極氏などの幕府の有力守護たちが加勢し、対立構造は以下のようになりました。

東軍足利義視(将軍の弟)/細川勝元畠山政長斯波義敏大内氏/赤松氏/武田氏/京極氏など(約16万の兵力)

西軍足利義尚(将軍の子)/日野富子山名宗全畠山義就/斯波義簾/一色氏/土岐氏/六角氏など(約11万の兵力)

ここに、室町幕府重臣たちは東西に分裂する結果となったのです。

 

そして、1467年年1月、畠山政長畠山義就の軍勢が京都の上御霊社(京都市上京区)のそばの御霊林で戦いを始めました。

また、細川方(東軍)の赤松正則が播磨国へ侵攻し、山名氏から同国を奪還する戦いも起こりました。冒頭で触れた「嘉吉の変」の逆襲です。

これらの戦いを口火として両軍は、京都を中心に戦いを始めました。

 

同年5月になると、両軍の戦いは激しさを増しました。開戦当初は、東軍が有利でしたが、周防国山口県東部)の大内氏が西軍に寝返ってからは、兵力がほぼ互角となり、一進一退を繰り返しました。

しかし、翌1468年に、義視が山名方(西軍)に寝返り、義尚・富子が細川方(東軍)に寝返るという現象が起こりました。

こうなってくると、「なぜ戦っているのか」、「誰が味方で打ち倒す相手は誰なのか」という当事者さえも理解できないような複雑な状態になっていきます。

さらに悲惨なのは主な戦場が京都だったということです。京都の町じゅう、いたるところで戦いが行われ、平安時代からある建物が焼かれ、仏像は破壊され、経典や書籍なども灰となってしまいました。

京都に住んでいた貴族や僧侶たちも荒れ果てた京都を離れ、各地の大名を頼って、地方に亡命していきました。

応仁の乱は、関ケ原の戦いのような「天下分け目の決戦」が行われることはありませんでした。戦いはゲリラ的な小競り合いに終始しているうちに、戦乱は全国に波及。

宗全は、早い時期から「ムダな戦いになっている」と気づき、和平を画策していたようですが、結局果たせないまま1473年に病で死去しました。これによって、同年、勝元は擁立していた9歳の義尚を9代将軍に就任させましたが、その直後、宗全の後を追うように亡くなりました。

翌1474年には、細川勝元の子・政元と、山名宗全の子・正豊のあいだで和議が結ばれ、両氏の争いは収まりました。

両軍の総大将がいなくなったことで、戦いは下火になったものの、勝敗も決まらず、ダラダラと続いていきました。

結局、1477年に畠山義就河内国大阪府東部)に兵を引いたのをきっけかに、西軍の大内氏土岐氏らも領国に戻ったため、京都での戦乱は静かに終息していきました。

応仁の乱後の日本国内に残されたのは、政治的な混沌でした。将軍と幕府の権威は失墜し、その後の室町幕府はほとんど亡命政府と化しました。

そんな中央政府が存在しない状態となった日本では、以後、戦乱が100年以上も続いてしまいます。日本全土は血で血を洗う戦国時代へと突入したのでした。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

あの偉人たちにも黒歴史!? 日本史100人の履歴書  矢部健太郎=監修 宝島社

早わかり 戦国史  外川淳=編著  日本実業出版

1日1ページ読むだけで身につく日本の教養365   斎藤孝=監修 文響社

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著  宝島社

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社