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【経済史】室町時代の農業をわかりやすく

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【経済史】室町時代の農業をわかりやすく」というお話です。

政治と経済は密接に関係しています。

基本的には戦争や内紛が起こると、経済は右肩上がりに成長し、好景気となります。一方で豊かで平和な世の中であれば、経済は停滞し、不景気となります。それは現代の日本の情勢をみれば、納得できると思います。

人間は命の危険に晒されると、思考をめぐらせ、積極的に行動するようになるのです。

 

では、室町時代はどうだったのでしょうか。

室町時代は、戦火の絶えない時代でした。14世紀は南北朝の両陣営が互いに争い、各地で戦乱が相次ぎました。15世紀半ばには、応仁の乱が勃発し、京都は瞬く間に火の海になりました。16世紀になると、下剋上の風潮が強まり、戦国大名が各地で争いを始める群雄割拠の時代になりました。

このように動乱の時代である室町時代の人々は積極的に行動し、産業は成長し、経済は右肩上がりとなっていきました。

 

国の経済は、生産・流通・消費の活動を繰り返しながら循環し、成長していきます。今回は、室町時代の農業について見ていきたいと思います。

 

 

 

15世紀を中心とする室町時代は、

鎌倉時代のころまで武士を中心に進められてきた農村の開発は、しだいに農民たちの手で行われるようになりました。農民たちは新しくため池をつくったり、用水路を整えたりして耕地を増やしました。

また、灌漑施設として揚水式の水車が各地につくられました。日本は山地の占める割合が多く、河川は急流となる場合が多い。その急流を利用したのが揚水式の水車でした。

農業はさらに技術力と生産力を高め、鎌倉時代には近畿周辺のみだった二毛作が全国的に行われるようになり、さらに近畿周辺では、米と麦に加えて蕎麦がつくられる三毛作が始まりました。田植えのときには、豊作を祈る神事から発展した田楽が行われ、かけ声に合わせて苗を植えていきました。

肥料には刈敷や草木灰、家畜のフンなどに加え、即効性のある下肥(人糞尿)なども用いられるになりました。人糞尿が用いられるようになった背景には各地の都市の発達にありました。人口が集中する都市では人糞の処理は大きな都市問題でした。その解決策が都市近郊に位置する農村への肥料供給だったのです。

農作物では野菜類が増加し、大消費地を抱える京都の近郊を中心に栽培がさかんになりました。こうして生産された農作物が消費地である都市へと運ばれるという都市と農村のリサイクルシステムが確立しました。

また、蚕を育てるための桑、紙の原料となる楮、塗料に使う漆、染料に使う藍草などの商品作物の栽培もさかんになりました。

 

1420年に日本を訪れた朝鮮の使節・宋希景は、滞在中に記録した『老松堂日本行録』の中で、日本の農村風景について記しています。その中には、摂津国兵庫県尼崎市)の土地の農家が三毛作を行っていることに驚き、三毛作が出来るのは、日本の水利灌漑技術が優れているからであると感心したようです。

室町時代は、製塩業も発達した時代でした。製塩技術には、揚浜と入浜の2種類あり、揚浜とは、海水を人力でくみ上げ、その海水を砂浜にまき散らして乾燥させ、そこから取れる濃縮した塩水を煮沸して塩を取り出す技術です。入浜とは、潮の干満を利用して塩田に海水を導きいれる技術です。室町時代は、自然浜のほかに、のちに入浜塩田である古式入浜が開発されました。塩田は江戸時代になると大規模に開発されました。

 

生産力が高まって農民の暮らしがよくなると、これまで名主(有力な農民)にしたがっていた中小の農民たちも、自立して土地を耕す権利が認められるようになりました。そのため、荘園内の様々な問題を、名主だけの考えで決めることが出来なくなりました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

図説 日本史通覧  帝国書院

聴くだけ  日本史  古代~近世    東京大学受験日本史研究会

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社