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【お茶の歴史】日本の茶文化はどのように広まったのか【村田珠光】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【お茶の歴史】日本の茶文化はどのように広まったのか【村田珠光】」というテーマでお伝えしたいと思います。

 我々が嗜好品として口にするお茶は、9世紀に遣唐使によって中国からもたらされたと言われています。その当時は、一部の貴族のあいだに喫茶を楽しむ風潮が広がり、遣唐使が廃止されると、すたれてしまいました。

 その後、本格的に茶を普及させたのは臨済宗の開祖・栄西でした。12世紀、栄西肥前(長崎)で茶の栽培をはじめ、源実朝に茶を献上して病を癒したと伝えられ、以後その薬効が宣伝され、仙薬として上流階級に愛飲されるようになりました。京都、平戸、博多、鎌倉など、茶の栽培地も生まれました。

 南北朝時代になると、武士のあいだで茶寄合というものが盛んに催されました。寄合では「闘茶」と呼ばれる産地や良否を当てる賭けが盛んに行われ、高額な賭物がやりとりされました。

 足利尊氏室町幕府をひらく際、建武式目でこれを禁止したものの、衰えることはありませんでした。室町時代を通じて、茶を愛飲する階級は爆発的に広まり、町には一服1銭の茶屋も現れたほどでした。

 こうして今日の茶道の原型である「茶の湯」が生まれました。書院造の発達にともない、床の間に中国からもたらされた絵画をかけ、違い棚や付書院に豪華な美術品や陶磁器、書物などをかざって、それを鑑賞しながら茶を飲む「書院の茶」が生まれました。

 こうした茶のあり方に対して、15世紀後半、村田珠光(1422~1502)は、禅僧の一休宗純の教えを受け、喫茶に禅の精神を融合させました。そんな珠光が、発案したのが簡素な四畳半の茶室のなかに、簡素な書や水墨画をかけ、生け花をかざり、それを鑑賞しながら静かに茶をたしなむ作法でした。

 この創意工夫は、武野紹鴎(じょうおう)に継承され、「わび・さび」という冷え枯れた簡素美を理念とした茶禅一致の「わび茶」への志向が明確に打ち出されました。茶の湯ははじめ豪商のあいだに流行し、やがて戦国大名たちも熱中。天下人の織田信長豊臣秀吉も熱中したことから、諸大名も茶人を召し抱え、高価な茶道具の収集に熱を入れ、競って茶室をつくりました。滝川一益(信長の重臣)のように、一国の付与より名茶器の下賜を主君に望む武将が現れるほどでした。

 珠光、紹鴎と伝えられた「茶の湯」は、戦国時代後期に登場した千利休によっていっそう洗練されたうえ、大成されました。

 利休は、秀吉の寵愛を受け、天下第一の茶匠と呼ばれ、その権威は絶対的で、茶器の価格はすべて利休の目利きによって決まったほどだったという。けれど、黄金の茶室に代表される秀吉の豪華な茶と、離宮の目指す「侘び・さび」の茶は次第に乖離・対立するようになり、1591年、離宮は秀吉から自殺を強要されました。

しかし、利休の精神は弟子や子孫らに脈々と受け継がれ、江戸時代には儒教思想茶の湯に取り込まれ、芸道としての茶道が高まっていきます。

 

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

早わかり 日本史   河合敦=著  日本実業出版社

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社