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【室町時代】なぜ各地に小京都が誕生したのか【宗祇】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【室町時代】なぜ各地に小京都が誕生したのか【宗祇】」というテーマでお伝えしたいと思います。

 

室町時代には、中央で開花した文化が地方へも波及していった時代でした。

今回は、室町時代の地方文化についてみていきながら、なぜ各地に小京都が誕生したのかについても触れてみたいと思います。

 

 1567年、応仁の乱が勃発すると、その戦火を逃れるために京都に住んでいた公家や僧は次々と地方都市へと亡命していきました。

 そんな亡命者たちを地方の武士たちは、温かく迎え入れたため、彼らとの交流が進むうちに、京都の文化は地方へも広がっていきました。

 たとえば、大内氏の領国である周防国の山口(山口市)には、多くの僧や学者・公家が集まり、儒学儒教を研究する学問)や古典の研究、出版などが行われました。また、雪舟水墨画は、大内氏の保護のもと、大成されたといっても過言ではありません。

 大内氏は、かつて明との貿易を独占していたため、山口は「西の京」とよばれるほど豊富な人口や経済活動、そして都市開発も進んでいました。そんな山口では、京都を真似た町づくりが行われ、山口市には京風文化を象徴する建造物が作られました。京都と同じように祇園祭も行われるようになりました。

 現在も山口市には京風の建物が残っており、その代表例として挙げられるのは瑠璃光寺五重塔でしょう。これは応永の乱で敗れた大内義弘の霊を弔うために1442年頃、建てられたそうです。

 

 また、土佐国の中村(高知県四万十市)では、関白だった一条懐良の子・教房(のりふさ)が応仁の乱を逃れた後に定住したことから、土佐の小京都として栄えました。

 このように、各地の小京都は、応仁の乱の戦火を避けるために、京都から亡命してきた貴族や僧、学者などによってもたらされた文化のもと、形成されていったのです。この時代、他にもたくさんの小京都が地方に誕生しました。以下に列挙しておきます。

岩見国の津和野(島根県津和野市)

但馬国の出石(兵庫県豊岡市

美濃国の郡上(岐阜県郡上市

飛騨国の高山(岐阜県高山市

伊予国の大洲(愛媛県大洲市

 また、地方文化への広がりということでは、旅をしながら生涯を送った連歌師たちの役割も大きいものがありました。彼らは地方に招かれて連歌の指導にあたり、京都と地方を往来して文化や情報を伝える役割も担いました。

 そんな連歌師の代表的な人物に、宗祇がいます。宗祇は、若い頃に出家し、京都の相国寺で修行しながら和歌や古典の教養を身につけた後、連歌師として諸国を遊行して過ごしました。

 1488年、宗祇は弟子の肖伯・宗長とともに3人で連歌集『水無瀬三吟百韻』を後鳥羽上皇を祀る水無瀬宮で詠んだ正風連歌の傑作といわれています。個人としての連歌集は『新撰菟玖波集』があります。宗祇は、連歌を芸術の域にまで高めました。その他、宗祇は自身の遊行体験を綴った『白河紀行』や『筑紫道紀』などの旅行記を著しました。

 

 学問では、儒学が大名たちに必要な学問としてみなされました。明で儒学を学び、帰国した佳庵玄樹は、肥後国熊本県)の菊池氏や、薩摩国(鹿児島県西部)の島津氏に招かれて講義を行い、薩南学派という一派を開きました。また、五山文学後期の臨済宗の僧侶である万里集九は、中部や関東をめぐり、漢詩文を残しました。

 関東では、15世紀中ごろに、関東管領の上杉憲実が、鎌倉時代後期に最高学府とされながら廃れていた足利学校を自らの蔵書を寄進して再興させ、儒学を学ぼうとする多くの僧や武士が各地から集まりました。

 また、地方武士たちは、弟子や子供を寺院に通わせて教育をしました。教育が行われる寺院は寺子屋とよばれ、教科書には『御成敗式目』や『庭訓往来』が使われました。

こうした教育は、都市や農村の裕福な人々にも広がっていきました。

 

 以上、今回は、室町時代の地方文化についてと、なぜ小京都が誕生したのかについてみていきました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社