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【室町仏教】鎌倉6仏教はその後どうなったのか

こんにちは。 本宮 貴大です。

今回は「【室町仏教】鎌倉6仏教はその後どうなったのか」というテーマでお伝えしたいと思います。

 

鎌倉時代に成立した新仏教には以下の6つがありました。 それぞれ少しだけ解説します。

・浄土宗(念仏を重視)・・・法然を開祖とし、「南無阿弥陀仏」という念仏を口で唱えることで極楽往生が約束されるという専修念仏を説きました。 主な支持層は、京都近辺の公家や女官、都市住民などでした。

浄土真宗(念仏を重視)・・・法然の弟子だった親鸞は、法然の教えをさらに深め、自分の無力さを自覚している悪人こそが極楽往生できるという悪人正気説を唱えて浄土真宗として広めていきました。 主な支持層は、関東・東海・北陸・近畿の農民たちでした。

臨済宗坐禅を重視)・・・宋に渡った栄西が日本に持ち帰った禅宗の一派で、その教えは、坐禅を組み、師匠の与える公案を解決することで悟りの境地に至ることが出来るというものでした。 主な支持層は鎌倉幕府や全国の上級武士たちでした。

曹洞宗坐禅を重視)・・・栄西の弟子でもあった道元も、宋へ渡った後に曹洞宗を日本に持ち帰りました。 その教えは、ひたすら坐禅を組むことによってのみ悟りを開くことが出来るというもので、只管打坐という厳しい修行方法を貫きました。 主な支持層は、地方の中級・下級武士たちでした。

日蓮宗法華経を重視)・・・開祖である日蓮法華経の教えこそが唯一の救いの道であると唱え、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることで国も人も救われるのだと説きました。 主な支持層は、都市の中級武士や商工業者でした。

時宗(念仏を重視)・・・浄土宗の一派で、一遍を開祖とします。 一遍は諸国を遊行し、念仏札を配り、踊念仏などを行ってその教えを広げていきました。 主な支持層は、全国の農民や武士たちでした。

 これらの新仏教は、旧仏教との勢力の強かった鎌倉時代においては、まだ旧仏教をしのぐほどの勢力とはなりませんでした。

 しかし、南北朝の内乱を経て、室町時代に入ると、その保護者であった朝廷や公家が没落し、荘園制も崩壊して寺院がその経済的基盤を失ったために、旧仏教は次第に勢力を失っていきました。

それに代わって、新仏教の諸宗派が武士・農民・商工業者などの間に教線を広げ、その信仰を得て大規模な教団として発展していきました。 特に、禅宗一休宗純日蓮宗の日親、浄土真宗蓮如の活躍は注目されます。

 

浄土宗・・・法然の死後、鎮西派と西山派などの多くの流派に分かれていたが、南北朝時代のころから地方武士の信仰を得て、その保護を受けて教団化していきました。 朝廷・貴族・上流武士とも接触を深め、東山文化の時代には、禅宗と並んで、貴族・上流武士の間に広まっていきました。

 

浄土真宗一向宗・・・親鸞の死後、門弟たちによって京都大谷に祖廟がつくられ、娘の覚信尼が留守職となりました。 その後、親鸞の孫の覚如が第3代として門徒から独立して本願寺を創建し、教団化を図りました。いつしか浄土宗は一向に念仏に専修することから一向宗と呼ばれるようになりました。

 一方で、浄土真宗には、専修寺派や仏光寺派などの宗派が誕生し、本願寺派の信者が分離していったため、本願寺は次第に衰えていきました。

 そんな本願寺の再建を目指したのが、第8代の蓮如でした。 1471年、蓮如越前国の吉崎(福井県あわら市)に道場を立てて北陸で布教活動を始め、その信者である門徒たちは講という信心のための寄合をしきりに開きました。 蓮如は、御文というやさしい仮名遣いの手紙を各地の寺院に送り、信者の獲得と指導に努めました。 こうして一向宗本願寺派は北陸を中心に信者が急増していきました。

 やがて、越前国の隣の加賀国(石川県南部)で一向一揆が頻発したために、蓮如は京都に戻り、近郊の山科に本願寺を建て、晩年には大阪の石山にも本願寺を建立し、一向宗本願寺派の隆盛の礎を築きました。

 

臨済宗・・・臨済宗鎌倉幕府の保護を受けましたが、室町幕府もそれを引き継ぎ、臨済宗を尊重しました。足利義満の頃には禅宗寺院の寺格を表す五山・十刹の制が整備され、この五山・十刹の地位を手に入れた臨済宗の寺院は、幕府の保護を受けて組織化されていきました。また、五山派の僧侶を中心に、五山文学が隆盛しました。しかし、応仁の乱をきっかけに室町幕府の衰退とともに、臨済宗五山派は衰えていきました。

 これに対し、曹洞宗や、五山・十刹の制に入らない臨済宗でも大徳寺妙心寺などは林下と呼ばれ、地方での布教活動など自由な活動を行いました。

 曹洞宗では瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)以後、教団化がすすめられて法系が全国的に広がりました。

 臨済宗でも、大徳寺妙心寺をはじめ、各地に寺院が建立され、旧仏教や民間信仰とも妥結して、武士のみならず農民をも信者としていきました。大徳寺派一休宗純は、当時の禅宗の腐敗を厳しく批判し、禅宗の大衆化に努めました。宗純は、その交友関係も広く、能楽金春禅竹、茶人の村田珠光連歌山崎宗鑑など、多くの文化人が参禅して禅宗は、当時の文化に取り入れられていきました。

 

曹洞宗・・・曹洞宗では瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)以後、教団化がすすめられて法系が全国的に広がりました。

臨済宗でも、大徳寺妙心寺をはじめ、各地に寺院が建立され、旧仏教や民間信仰とも妥結して、武士のみならず農民をも信者としていきました。 大徳寺派一休宗純は、当時の禅宗の腐敗を厳しく批判し、禅宗の大衆化に努めました。 宗純は、その交友関係も広く、能楽金春禅竹、茶人の村田珠光連歌山崎宗鑑など、多くの文化人が参禅して禅宗は、当時の文化に取り入れられていきました。

 

日蓮宗・・・日蓮以来、浄土宗と激しく対立しながら地方武士の信仰を獲得し、その政治的援助を受けて領内の住民のすべてを信者にするという方法をとって信徒を広げていきました。日蓮宗は、鎌倉時代には東日本が中心でしたが、鎌倉時代末期に日像が出て以来、京都にも進出し、朝廷・貴族・幕府との結びつきを深めていきました。

 15世紀中ごろに出た日親は、布施を受けず、他宗の者には一切の施しを与えないという不授不施を説くなど、激しく他宗と対立しました。日親は『立正治国論』を著し、室町6代将軍・足利義教に諫言したため、幕府から処罰を受けました。しかし、日親は屈せず、京都から九州、中国地方の商工業者に布教していきました。

 やがて応仁の乱が起きると、京都の復興を担った有力商人や町衆は、日蓮宗を母体とした法華一揆を結び、一向一揆と対立しました。しかし、法華一揆延暦寺と争った1536年の天文法華の乱によって壊滅しました。

 

時宗・・・時宗はもともと、道場をつくり、教団をつくることを否定していました。 しかし、一遍の死後、流派が分かれ、それぞれが教団をつくっていきました。 その流派は大きく一向衆と時衆に分けられます。 時衆は同朋衆として将軍や大名の側近にも仕え、農民を中心に線教を広げました。 戦国時代に入ると、その信徒のほとんどが浄土真宗をはじめ、浄土宗や禅宗に吸収されていきました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。 それでは。

参考文献

一気に学び直す 日本史   【教養編】