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【経済史】室町時代の商業をわかりやすく

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【経済史】室町時代の商業をわかりやすく」というお話です。

政治と経済は密接に関係しています。

基本的には戦争や内紛が起こると、経済は右肩上がりに成長し、好景気となります。一方で豊かで平和な世の中であれば、経済は停滞し、不景気となります。それは現代の日本の情勢をみれば、納得できると思います。

人間は命の危険に晒されると、思考をめぐらせ、積極的に行動するようになるのです。

 

では、室町時代はどうだったのでしょうか。

室町時代は、戦火の絶えない時代でした。14世紀は南北朝の両陣営が互いに争い、各地で戦乱が相次ぎました。15世紀半ばには、応仁の乱が勃発し、京都は瞬く間に火の海になりました。16世紀になると、下剋上の風潮が強まり、戦国大名が各地で争いを始める群雄割拠の時代になりました。

このように動乱の時代である室町時代の人々は積極的に行動し、産業は成長し、経済は右肩上がりとなっていきました。

 

 国の経済は、生産・流通(商業)・消費の活動を繰り返しながら循環し、成長していきます。今回は、室町時代の商業について見ていきたいと思います。

 室町時代の商業の発展について、特に触れておきたいのが、京都です。室町時代、京都は経済都市として、他のどんな都市よりも発展しました。農業生産の発達が土台となって、室町時代には商業や手工業もこれまでにない発達を遂げました。なかでも京都は、朝廷に加えて幕府もおかれたことで公家や僧はもちろん、武士や商工業者も集まって暮らすようになり、京都に入り込む物資の絶対量が増え、手工業生産や商業活動が活発になりました。

 京都の商工業者たちは、平安時代には朝廷の役所や有力な貴族、大きな寺社の周辺などに住みながら、彼らの必要とするものをつくったり、納めたりいていました。鎌倉時代になって経済が発達すると、一般の商品販売を主とする商工業者が増え、自分たちの利益を守るために同じ職種の者たちが集まって座とよばれる団体をつくりました。座の構成員たちは、朝廷・貴族や寺社に奉仕するかわりに、商品を一手に販売する権利や関所の通行税を免除されるなどの特権を与えられました。その特権によって座の商工業者たちは、原料の買い付けから生産・販売にいたるまでを独占して利益をおさめました。

 荘園・公領からの年貢が減ってしまって、困っていた朝廷・貴族・寺社の側でも、座を増やして商工業者から営業税をとり、財政の行きづまりを補おうとしました。こうしたことから、室町時代になると座の種類が増え、それぞれの業種にふさわしい座もできました。京都には、米座・魚座・綿座・呉服座・材木座など40以上の座がつくられました。

 これまでバラバラに暮らしていた商工業者たちは、三条・四条や七条を中心に集まって暮らすようになり、にぎやかな商業地区が生まれました。これらの地域には町屋とよばれる商工業者たちの住まいが道路にそって軒を連ね、店頭には見世棚とよばれる台を出して商品を並べました。

 

 京都が大消費地になったため、京都周辺の農村では、それに対応するための商品生産や流通が活発になりました。農民たちは自分の食べるものや、年貢などに納めるものをつくる形から、売れるものをつくる方向に少しずつ動き出しました。

 畿内やその周辺の村々では、酒のもととなる米を加工した麹(こうじ)、麦を加工したそうめん、荏胡麻をしぼった灯油、わらなどからつくった紙、麻布を織る原料の青苧(あおそ)、藍草からつくる布の染料などといった様々な農産物の加工や販売が行われるようになりました。

 特に、灯油は、人々の生活必需品となり、需要は右肩上がりに伸びていきました。室町時代には一般の人々も灯火(ともしび)で暮らすようになりました。先述の通り、灯油は荏胡麻の種をしぼって油を取り出します。この灯油の生産や販売を独占していたのが油座で、大山崎京都府大山崎町)にありました。

 彼らは、離宮八幡宮の神人(神社に奉仕する人)の身分となって、石清水八幡宮に灯油を奉納するという名目で灯油生産を始めました。彼らは朝廷や幕府から関所の通行税を免除され、中国・四国地方にまで出向いて荏胡麻を買い占める権限も与えられました。そして、しぼった油を京都市中はもちろん、畿内周辺にまで広く売りさばきました。

 なお、油座に入っていない者は、荏胡麻仕入れることも、売ることも出来ませんでした。

 また、漁業の面でも、魚を塩漬け加工したり、塩の生産を主な産業とするところもでてきました。これらの生産物を売り出すための座も各地にできました。

 それと並んで、京都郊外の大原のあたりから薪を売りにくる大原女、桂川で獲れた鮎を売りに来る桂女などといった行商人の商売も活発となり、京都と周辺農村とのあいだに経済的な結びつきが生まれました。

 

 京都と地方とを結ぶ物資の流通も活発になりました。京都から離れた地方では、年貢や公事を現物のかわりに銭で納める代銭納が進み、荘園の市場で売られた米や特産物、その他もろもろの必需品が、大半は商品として京都に輸送されました。

 いっぽう、京都は消費地であると同時に、地方の荘園から送られてくる原料を加工する生産地でもあったので、京都や畿内周辺で作り出された手工業品が地方に流通するようになりました。つまり、当時の京都は日本経済の心臓だったのです。

 交通の要地や特産物の取り引きが、さかんな地方では、1カ月に3回開かれる三斎市だったものが、6回開かれる六斎市へと変わっていきました。市には常設の小売店が開かれ、見世棚を設けて品物を販売することも多くなり、市は町に発達しました。市にも市座とよばれる座があり、そこで商売をする権利を持つ商人が、仕入れから運送・小売りまでの営業を独占しました。

 

 物資の流通がさかんになるのにともなって、陸と海の交通路が開発され、中央と地方をつなぐ商人の活動も目立ってきました。

 鎌倉を中心とした関東・東海道方面の物資は大湊(三重県伊勢市)で陸揚げされ、近江国滋賀県)を経て、京都に入りました。この陸路では今堀(滋賀県東近江市)などの住民が商人集団として活躍し、取り扱う商品別に紙座・塩座・呉服座などの座がつくられました。

 北陸方面の物資は敦賀福井県敦賀市)・小浜(福井県小浜市)などの港から陸揚げされ、琵琶湖を経て京都に入りました。

 中国・四国・九州方面など西国方面から物資は、瀬戸内海と淀川を通って船で運ばれました。瀬戸内海は畿内の経済を支えるもっとも大きな交通路で、尾道広島県尾道市)・兵庫(兵庫県神戸市)・堺(大阪府堺市)などが港として発展しました。

 特に兵庫港兵庫県神戸市)は、瀬戸内海沿岸の各地から畿内や京都に向けて送られる物資をつんだ多くの船が出入りする港でした。兵庫県(北関)に入港する船から税をとる権利を得ていたのは、奈良の東大寺でした。当時の積荷などを記した『兵庫北関入船納帳』とよばれる1445年の入港記録が1年分残っています。

 この史料によると、兵庫港への1年間の入港隻数は約2000隻。船の規模は100石積み(積載重量約10トン)以下の小型船が半分近くを占めており、1000石積み以上の大型船は4隻ありました。代表的な積荷は、塩・木材・米で、その他、麦・大豆などの穀類、なまこ・イワシ・などの海産物、藍や荏胡麻、布、鉄、備前焼の壺などがありました。

 交通の要所要所にある交易の中継地は都市へと成長し、数千から数万の人口を持つほどに発展しました。これらの都市には、多くの馬借・車借や廻船・問丸がおり、商品運送を担当しました。馬借とは、馬の背に、車借とは、牛に引かせた車に物資を乗せて運ぶ運送業者のことです。一方で、廻船とは、港から港へ貨物を運ぶ船の業者のことで、問丸とは、陸揚げ地である河川や港の近くの都市に居住し、商品の保管や運送を行う業者のことです。

 問丸は、しだいに商品の中継取り引きを行うようになり、専門の卸売商人に発展して問屋と呼ばれるようになりました。京都には、米や木材などの特定の商品を大量に扱う卸売り市場もできました。

 

 商業の発達にともなって、貨幣がたくさん必要になりました。明(中国)から日本に輸入される銅銭は、おびただしい量にのぼりました。先述の通り、運送業が発達したことで遠隔地間での取引が可能になり、金銭の輸送を手形で代用する為替もさかんに利用されるようになりました。

 金融業者も多くなり、鎌倉時代には高利貸業者は借上(かしあげ)とよばれましたが、室町時代には貸し金のかたに質物をとる土倉が増え、酒屋などの裕福な商工業者は、高利貸業を営むことが増えました。京都の貨幣経済を担う商工業者たちの中心にいたのが土倉・酒屋だったのです。このため、幕府は土倉や酒屋に営業税として土倉・酒屋役を課しました。

 これらの裕福な商工業者たちは15世紀頃から聴衆と呼ばれるようになり、経済的な力を背景に自分たちで町をおさめるようになりました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

図説 日本史通覧  帝国書院

聴くだけ  日本史  古代~近世    東京大学受験日本史研究会

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社