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【臨済宗】なぜ一休さんの頓知エピソードは生まれたのか【一休宗純】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【臨済宗】なぜ一休さんの頓知エピソードは生まれたのか【一休宗純】」というテーマでお伝えしたいと思います。

 

一休さん」といえば、数々の頓知で、将軍をはじめ、周囲の大人をギャフンと言わせる小坊主というイメージが強いでしょう。

アニメ「一休さん」は海外でも放映されており、明るく知恵者の一休のイメージは世界的なものといっても過言ではないでしょう。

今回はそんなアニメ「一休さん」のモデルとなった一休宗純のお話です。

さすがにアニメでの頓知エピソードは、後世の創作と言われているようですが、実際の一休も、頓知エピソードが創られたのも納得できるくらいの奇行と反骨精神で知られた小僧だったようです。

一休は臨済宗の僧侶です。臨済宗禅宗の一派なので、戒律は非常に厳しいです。しかし、一休はこれを拒否し、酒を飲み、肉を食い、女を愛し、髪もそらない破戒僧で、権威を嫌い、地位争いもバカげた争いだと全否定しました。

今回は、そんな一休の半生をストーリーとして展開していきながら、なぜ一休さんの頓知エピソードは生まれたのかについて見ていこうとおもいます 。

一休の出自はあまりよくわかっていません。しかし、アニメ「一休」でも語られているように後小松天皇の御落胤(私生児、父親に認知されていない子供)という説が有力です。

1394年、足利義満による南北朝の合一が達成されて間もない頃、一休は京都で生まれました。母親は藤原氏とつながる生まれだったため、「こいつが皇位継承したら困る」と考える連中によって、宮廷を追放されました。したがって、生まれながらにして命の危険があった一休は、身の安全を確保するため、わずか6歳で出家しました。

こうして、幼くして母元から離れた一休は、子供時代を京都の安国寺で過ごしますが、この頃の法名は「周建(しゅうけん)」でした。15歳のときに

1410年、16歳になった一休は、西金寺(京都市)の権翁宗為に弟子入りし、「宗純」という法名を貰っています。一休はこの権翁和尚に清廉な禅風などの大きな影響を受けます。しかし、一休が21歳のときに謙翁和尚が亡くなると、一休は「師と、来世で再会したい」として瀬田川に入水自殺を図ります。僧籍にある一休にとって、自殺とは破戒行為です。しかし、そのくらい一休は師匠の死別に深く傷心していたのです。

そんな波瀾の青春時代を過ごした一休は、翌1415年、22歳の時に、近江国滋賀県)の堅田にある祥瑞庵の禅僧・華叟宗曇(かそうそうどん)に弟子入りし、ここではじめて「一休」の法名を貰い、厳しい修行に励みました。

そして、1420年、一休が25歳のとき、闇夜の琵琶湖畔の舟上で坐禅を組んでいるときにカラスの鳴き声が聞こえると「カラスは見えなくてもそこにいる。仏も見えなくても心のなかにいらっしゃる」と悟りに至りました。

そんな一休に華叟宗曇は悟りを証明する印可状を渡しました。しかし、一休はその印可状を焼き捨ててしまいました。

一休が奇矯な行動をし、頓知を発揮するようになるのは、この頃からです。

有名な具体例をご紹介します。

一休は華叟宗曇が亡くなったのを機に、寺を出て旅暮らしを始めます。近畿一円を転々としながら、禅の教えを説いてまわったそうです。

そんなある日、一休は、堺の町を大きな朱鞘(しゅざや)の太刀を腰に差して歩いていると、それを見た商人が言いました。

「あんた、坊さんのくせに物騒な得物やなぁ」

一休は言いました。

「この刀か?見てくれは大層じゃが・・・。ほれ、このとおりただの木刀じゃ。立派な見かけとは裏腹に中身は偽物。木刀では人を殺めることも活かすことも出来ん。皆も偽物を尊ぶでないぞ。」

といって、周囲の人達を笑わせたそうです。

これは格好ばかりで中身のない堕落した禅僧たちを表しており、特に文化人気取りで浮世離れした生活をする五山派の僧侶たちへの皮肉を込めた行為でした。

その他にも、大きな法要の席などにもわざとボロボロの衣で参加するようになるなど、一休の奇行は広く一般に知られることになりました。

一休は、名声を望むことなく各地を歩いて庶民と親しく接し、五山派の僧の堕落を批判したのです。

そんな中、室町幕府3代将軍・足利義満以降、安定を見せていた幕府でしたが、6代将軍・足利義教の強引な専制政治に対する反発や、各地の一揆により、幕府の権威は揺らぎ始め、さらに1460年頃から近畿や北陸などで大飢饉が起こるようになりました。

人々は救いを求めて京都に集まるも、結局は餓死者8万人をだしてしまいました。

こうした情勢に一休は嘆きました。

「世の中が乱れておる。」

そして、1467年には、将軍の後継者争いに有力守護大名家督争いが結びつき、各地の守護大名が東西に分かれて対立、すぐに戦乱へと発展しました。いわゆる応仁の乱が勃発したのです。

京都は瞬く間に火の海となり、いたるところが戦場となりました。

もちろん一休も無関係ではなく、住んでいた大徳寺三内の香炉庵(こうろあん)が被災してしまいました。

その後、一休は薪村の酬恩庵(しゅうおんあん)に移り住むも、ここにも戦火は迫り、一休は大和や和泉などを流浪する生活となってしまいました。

 

そんな乱れた情勢にも関わらず、室町幕府8代将軍・足利義政は豪奢な生活を送り、贅を尽くした山荘の新築や、猿楽見物や見物山遊と、民を顧みない生活をするようになりました。

一休は絶望しました。

「これだけ世の中が荒れているのに、将軍ときたら、邸宅の改築に酒宴だと遊んでばかり。帝の忠告すら聞かん。世の末じゃのう。」

一休の奇行は、社会風刺までも含むようになりました。

ある年の正月、祝賀の雰囲気漂うなか、一休は杖のうえにしゃれこうべをつけて、道行く人に忠告しました。

「年を取ったということは、それだけ死に近づいているということじゃ。元旦は冥土の旅の一里塚じゃ。うかうかしていると、骸骨になってしまうぞ。ご用心、ご用心。」

 

そして、1471年春、77歳になった一休が住吉薬師堂を訪れたとき、鼓を打っていた盲目の美人旅芸人・森侍者(しんじしゃ)と出会いました。この時、一休は77歳。彼女は20代後半。50歳の年の差でしたが、一休は彼女にベタ惚れしており、彼女もまた一休と一緒に暮らすことを選び、互いに契りを交わしたのちに、一休が死ぬまでは同棲生活を送ることになりました。

「貴女は、まるで楊貴妃みたいに綺麗だ。」

「貴女の寝顔を見ていると、気持ちが高ぶってしまうよ。」

一休はまるで少年のような言葉を彼女に残しました。

 

1477年には、11年間続いた応仁の乱が疲弊による和議にて終結をみました。しかし、各地で戦乱は収まらず、戦場となった京都は焼け野原となったのでした。

同年冬、一休のもとに後土御門天皇の勅令(天皇からの命令)が届きました。その内容は、一休を是非とも大徳寺の住職にしたいことと、その条件として応仁の乱で焼け落ちた大徳寺を復興してほしいとのことでした。

「貴方、どうなさったのですか。」

「帝(みかど)の命令じゃ。大徳寺を復興してほしいそうじゃ。」

「今まで、政(まつりごと)とは距離を置いていらしたのに。」

「帝の命令では仕方あるまいさ。」

そう言って、一休は81歳にして大徳寺の住職となり、大徳寺の再建事業には弟子や、堺の豪商・尾和宗臨(おわそうりん)を中心に彼を慕う堺商人が尽力しました。

こうして大徳寺の再建は達成されました。そんな大徳寺は、戦国時代になると、千利休ら茶人が参禅し、江戸時代には幕府の統制のもと発展していくのでした。

大徳寺のように応仁の乱後に華開いた文化を東山文化といいます。中でも義政の建てた銀閣寺に代表される書院造は和風住宅の原型となりました。

以後、一休は晩年を妻・森侍者と幸せに暮らしました。

妻にベタ惚れしている一休和尚に対し、小坊主たちは「和尚のあれは破戒だ・・・」と陰口を叩くも、これを聞いた一休和尚は「違う。これが本来の禅僧の姿じゃ。おぬしたちもいずれわかるときがくる。」と、もはや開き直りに近い言葉を残しました。

 

1481年、一休はマラリアに罹り、床に伏した後に「死にたくない」と残し、亡くなりました。悟りを開き、自殺未遂までした一休でしたが、愛する人との別れは悔やまれるものだったのでしょう。

 

一休は88年という当時としては長い生涯を終えました。残された森侍者は生涯かけて一休を慕い続けました。

一方、室町幕府は相次ぐ争乱によって破壊の一途をたどり、守護代や有力国人が力を伸ばしはじめました。

 

世は下剋上。戦国の世の幕開けとなったのです。

 

今回は、一休さんの生涯をみてきました。彼の奇行や言動は、当時の社会風刺が含まれたもので、こうした批判精神に満ちた生き様が庶民に受け、一休の頓知エピソードが創作されるようになったそうです。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

図解 眠れなくなるほど面白い 仏教  渋谷のぶひろ=著 日本文芸社

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