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【能と狂言】なぜ猿楽は伝統芸能に発展したのか【観阿弥・世阿弥】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【能と狂言】なぜ猿楽は伝統芸能に発展したのか【観阿弥世阿弥】」というテーマでお伝えしたいと思います。

 現在も日本の伝統芸能として演じられ続けている「能」。

 この能を大成させたのが、観阿弥世阿弥父子と言われています。能の演目は1番、2番と数えられますが、現在も頻繁に上演されているのは240番くらいまであります。そのなかに確実に世阿弥のつくったものが50番以上含まれていることから、能の天才としての世阿弥を見ることができます。

 ということで、今回はそんな観阿弥世阿弥父子に注目して、ストーリーを展開していきながら、なぜ猿楽は伝統芸能へと発展したのかについて見ていこうと思います。

 

鎌倉時代、多くの人が集まる場所では芸能が楽しまれました。

当時、もっとも流行した芸能は田楽でした。田楽は豊作を祈る農村の祭りから発展したもので、笛や太鼓などの楽器を演奏しながら踊ります。「二条河原落書」には、「犬、田楽は関東のほろぶるといいながら、田楽はなおはやなるなり」と書かれていて、鎌倉幕府が滅んだのは、執権の北条高時闘犬や田楽に夢中になり、政治をかえりみなかったためにいわれているのに、それでも田楽の人気はおとろえない、と皮肉っています。

また、鎌倉時代には田楽を専門におこなう田楽法師が現れ、京都やその周辺には、田楽法師の一座ができました。1349年、橋をつくる費用を集めるため京都の四条河原で田楽を催されたときには、将軍の足利尊氏をはじめとして公家や僧、庶民にいたるまで多くの見物人がおしかけたため、見物人がくずれて大勢の死傷者が出る騒ぎになったほどです。

 

この田楽と人気を競い合った芸能が猿楽でした。猿楽も農村の祭りから発展した芸能で、めでたい舞いやこっけいなものまね芸などを行いました。鎌倉時代の終わり頃から人気が出てきて、大和国奈良県)や近江国滋賀県)などの京都周辺の村々には、猿楽を上演する一座も生まれました。これらの猿楽能は、各地の寺院や神社の祭礼などに招かれ、舞台の上で猿楽を演じました。

南北朝時代大和国奈良県)には、春日大社の神事(神をまつる儀式)に奉仕する猿楽の座が4つありました。そのうちの結崎座をまとめていた観阿弥は、新しく歌(謡)と舞を取り入れて、物語としての面白さをもつ猿楽能をつくりあげていました。

 

このように鎌倉時代を経て、南北朝時代に流行した田楽や猿楽は、まだまだ民衆の好むいやしい芸能だと見なされていました。

 

それが、室町時代になると、上級武士や貴族に愛好されるようになり、やがて能や狂言という室町文化を代表する伝統文化へと発展していきます。そのきっかけは一体何だったのでしょうか。

 

1374年のある日、観阿弥は、子の世阿弥とともに京都の今熊野の地で猿楽を演じることになりました。その評判を聞きつけた室町3代将軍・足利義満は見物にきました。そして観阿弥世阿弥父子の芸を見物した義満は、その素晴らしさに感激し、彼らに特別な保護を与えることにしました。

特に、美男子であった世阿弥は、義満に気に入られ、幕府内の一部の権力者しか入れないところまで連れられました。このとき、義満は18歳で、世阿弥は15歳でした。義満は、世阿弥にメロメロで、「一緒に飲まない?」とか「お祭りを見にいこう」と誘いまくったそうです。

 

そんな義満の保護のもとで、観阿弥世阿弥父子は、猿楽を洗練された美しさをもつ能へと大成させていきました。

観阿弥は、「幽玄」を重視し、田楽や近江猿楽の芸風を取り入れながら、能は「ものまね芸(写実)」を根本に置かなければならないとして、大和猿楽へと革新させました。しかし、観阿弥は猿楽能の初心を忘れることはなく、「衆人愛敬」を第一として、どのような観衆の心をもとらえることを基本方針としました。

一方、世阿弥は、貴族や上級武士の好みにあうように能を改革し、「幽玄」や「ものまね芸」、そして「花」を芸能の根本としたうえで、父・観阿弥の築いた猿楽能をより芸術性の高い能として大成させました。その後、世阿弥は『高砂』、『井筒』などの多くの謡曲(能の台本)をつくり、1400年には父・観阿弥の教えをまとめた能の理論書である『風姿花伝』などの著作にまとめました。『風姿花伝』には能の美しさを花にたとえ、年齢に応じた稽古や演技の仕方などについて述べられており、「秘すれば花」、「初心忘るるべからず」など現代の芸能や演劇にも通ずる言葉も述べられています。

しかし義満の死後、特に6代将軍・足利義教の時代になると、世阿弥は幕府から圧迫を受けることになりました。将軍や幕府の重臣たちは、もともと低い身分の者だった世阿弥たちが才能を発揮することを快く思っていなかったのです。

身の危険を感じた世阿弥は59歳で出家するも、1422年に佐渡国新潟県佐渡島)に流されてしまいました。後に許されて京都に戻った後は、女婿の金春禅竹の邸宅で余生を過ごしたそうです。

 

猿楽が持っていた滑稽で即興的な要素を発展させたのが、狂言でした。能は主として古典の物語や神話・説話に題材をとったのに対して、狂言は下級武士や下人、農民などの民衆の生活のなかでの出来事を取り上げ、当時の話し言葉(俗語)を使って、こっけいな劇として演じました。

劇の内容には、公家や武家・僧などを風刺するものもあり、しばしば支配者たちかの怒りを買いましたが、そうした風刺は、庶民のあいだでは、大変喜ばれました。

狂言を演じる役者たちは、猿楽の一座のなかで独立した地位を占めるようになり、能と狂言が交互に上演されるようになりました。

こうすることによって、互いの芸が際立つようになり、両者を差別化する一方、能と狂言は切り離すことが出来ない一体化した芸能として発展していきました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

あの偉人たちにも黒歴史!? 日本史100人の履歴書  矢部健太郎=監修 宝島社

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著  宝島社