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【御恩と奉公】将軍と御家人の関係をわかりやすく【源頼朝】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【御恩と奉公】将軍と御家人の関係をわかりやすく【源頼朝】」というテーマでお伝えしたいと思います。

 本題に入るまえに、将軍(鎌倉殿)とは何か、御家人とは何か、について解説したいと思います。

 将軍とは、正式名称は征夷大将軍ですが、もともとは朝廷が蝦夷(東北地方以北の住民)を平定させるため、最高司令官として臨時に任命した役職のことです。源頼朝が幕府を開いてからは武家の棟梁(指導者)の地位をあらわす称号となり、征夷大将軍武家政治を行うようになりました。

 一方の御家人とは、主君に従う従者のことで、一般に家人と呼ばれていました。それが将軍(以下、鎌倉殿)と主従関係を結んだ武士を敬って「御」の字を加え、御家人と呼ぶようになりました。はじめはただの敬称でしたが、のちに御家人でない武士(非御家人)と区別され、武士の身分のひとつとなり、鎌倉殿はこの御家人のなかから守護地頭を任命しました。

 

 では、そんな鎌倉殿と御家人の主従関係とはどのようなものだったのでしょうか。

鎌倉幕府の基本理念は「御恩と奉公」。御家人は所領の保証を受ける見返りに、軍役や番役などを通して将軍(鎌倉殿)に奉仕しました。

 鎌倉幕府は成立後、約120年間も続きますが、その政治体制を根本から支えていたのが、この主従関係です。鎌倉殿と御家人は、御恩と奉公とよばれる深い信頼関係で結ばれていました。

 まず、御家人になると、祖先伝来の土地を受け継ぐことを鎌倉殿から認められました。これを本領安堵と言います。祖先伝来の所領を「一所懸命の地」と呼ぶほどに大切にした武士にとって、その所領を保証されたのは何よりの御恩でした。

 さらに、御家人には軍功として新しい土地を与えられる権利を得ました。これを新恩給与といいます。

それ以外にも、御家人は現地の日常的な支配に加え、臨時で年貢や兵糧米を徴収できる権利を鎌倉殿によって保障されており、先述通り、御家人になると守護や地頭に任命される地位も与えられます。

 こうした御恩に報いるために御家人は、戦時となった際には「いざ、鎌倉へ」として一族を引き連れて鎌倉殿のために命を懸けて戦います(軍役)。

 また、平時のときには、京都の内裏(天皇の住まい)の警護にあたる京都大番役や鎌倉の警護にあたる鎌倉番役をつとめたりします(番役)。

 その他にも鎌倉で政務をとったり、いろいろな仕事をします。これが鎌倉殿の御恩に対する御家人の奉公です。

このように鎌倉殿の土地を媒介とした御恩に対し、御家人は奉公するという一種の契約にもとづく主従関係を、封建制度と呼びました。

 

御家人は、この主従関係による鎌倉殿とのつながりを非常に大事にしていました。

では、最後にそんな御家人の鎌倉殿(源頼朝)に対する忠誠心がわかるエピソードを見てから終わりにしたいと思います。

頼朝は御家人を地頭に任命するとき、自分で署名した任命書を与えていました。しかし、幕府の機構が整ってくると、政所(幕府の政務・財政を担当する機関)の役人が署名したものを任命書として発行するようになりました。

これに抗議したのが、関東の有力御家人である千葉常胤(つねたね)でした。これに対して幕府は、すぐに頼朝の署名入りの任命書を常胤に与えました。

この常胤の抗議は、政所の任命書では、のちの証拠として役立たないとして、あくまで頼朝の署名入りの任命書を発行してもらうことで、自らの地位を不動のものにしたという見方の方が強いですが、挙兵以来、頼朝に従ってきた千葉氏のような有力御家人であれば、頼朝とのきずなを大事にし、頼朝に対する強い忠誠心からきていると私は考えます。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社 

教科書よりわかりやすい日本史    石川晶康=著  旺文社