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【御成敗式目】北条泰時の3つの政策をわかりやすく【北条泰時】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【御成敗式目北条泰時の3つの政策をわかりやすく【北条泰時】」というお話です。

 

3代執権に就いた北条泰時は、3つの政策によって執権政治の基盤を強化しました。3つとは、連署の設置、評定衆の設置、御成敗式目51か条の制定です。

承久の乱から3年後の1224年、2代執権の北条義時が急死しました。したがって、北条氏はその後継者をめぐって揉め事が起こりそうになりましたが、これを収束させたのは、またしても北条政子でした。

政子は、六波羅探題のとして京都に赴任していた義時の子である泰時を鎌倉に呼び戻すと、泰時は、義時の長男であり、承久の乱のときには幕府軍を率いて京都に入り、朝廷軍を破ったあとに六波羅探題を置き、戦後処理にあたるという相当な功労者でした。

泰時を呼びもした政子は、三浦義村などの反対勢力を説き伏せ、泰時を3代執権として就任させました。その政子も翌1225年に亡くなり、さらに大江広元も亡くなったことで、幕府開設以来の中心人物はこの時期には、ほとんど姿を消してしまいました。

 

政子の死によって、後ろ盾を失った泰時でしたが、執権を中心に御家人を統率する体制を作り、執権政治の基盤を強化しました。

まず、1224年に連署を設置しました。連署とは、執権を補佐して政務にあたる役職で、幕府の公文書に執権と並んで署名することから、この名がつきました。連署には承久の乱後、泰時とともに六波羅探題をつとめた泰時の叔父の北条時房が就任し、以後、北条氏一族の有力者が任命されました。

翌1225年には評定衆が設置されました。評定衆は政子・広元の死をきっかけとしてつくられた組織で、幕府の政務処理や裁判を行う役職で、執権・連署が主導する合議制の評定(会議)によって決定・判断が行われました。

評定衆には北条氏一門のほかに、二階堂氏、大江氏、三善氏などの文筆家、それに三浦義村などの有力御家人によって構成され、執権政治に御家人の利害がしっかりと反映されるようにしました。

かつての源頼朝の頃は将軍独裁によって決定・判断が下されていましたが、頼家のときに親裁が停止され、13人の合議体制による政治がおこわれました。この時すでに北条氏は頼朝一族に匹敵するほどの扱いを受けていましたが、他の有力御家人にくらべ、経済的には必ずしも優位に立てているわけではありませんでした。そのために、北条氏は頼朝よりもはるかに積極的に御家人の利益を守ろうとし、合議制により有力御家人を政治に参加させたのでした。

翌1226年には、幕府が鎌倉の若宮大路の近くに移り、はじめて評定が行われました。

こうして幕府開設以来の将軍の権限は、執権・連署評定衆によって分散されることになりました。

 

そして、泰時が3つ目に取り組んだのは、この評定を運営するための指針となる法令を編纂することでした。その法令が、今回のメインタイトルである御成敗式目です。御成敗式目とは、武士が作った最初の法律で、武士のための法律です。

それまでの日本には「律令・格式」はあったものの、それは朝廷が作ったもので、武士には適用されず、訴訟や裁判の際には、自分たちの判断基準によって裁判を行ってきました。

この基準を「先例・慣例」や「道理(誰もが納得できる理屈)」と言いますが、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、御家人たちは争論や紛争が起こるたびに、頼朝自身が従来の先例や慣例によって判断していました。

 

この頼朝の慣例主義をもとに1232年に泰時が成文化したのが、御成敗式目でした。そんな御成敗式目はどのような内容なのでしょうか。大まかな内容は以下の通りです。

第1・2条 神社・寺について

第3~6条 守護・地頭の職務、幕府と朝廷、本所(貴族・寺社)との関係について

第7・8条 裁判上の二大原則について

第9~17条 犯罪に対する処分について

第18~27条 土地などの相続について

第28~31条 裁判の手続きについて

第32~51条 例外・追加的項目はもりこまれている。

 

これら51か条からなる条文は「神を尊び、仏を尊べ」からはじまるもので、当時の武士たちが納得できる理をもとにしていたため、武士達には非常に効果がありました。その条文は、律令に比べて文章がやさしく、実際的なものばかりでしたので、あまり学問のない武士たちにもわかる内容になっていました。

泰時は、「京都には律令があるが、それは漢字のようなものである。それに対してこの式目は仮名文字のようなものである。」としています。

 

頼朝が尊敬された理由の一つに、裁判が公平だったことから訴訟についての慣習だけでなく、その目安となるものを与えたのです。

その方針とは、頼朝以来の「慣習」と、武家の目から見た「道理」を一つにしたものでした。

それが、1221年、承久の乱後、この時、幕府への訴訟要求が急増しており、その公平な裁判基準の設置は急務でした。

この式目は、幕府の支配地である領地の守護を通して全国の御家人に知らされ、適用範囲はその支配地と御家人に限られました。

制定にあたって、義時は六波羅探題として京都に赴任していた弟の重時に、御成敗式目を制定した理由と、その主旨を、朝廷に説明させるために、以下のように書いています。

「この式目をつくったのは、一体を根拠に作ったのかと、京都の人々は非難するだろう。そこで、こう答えなさい。ただ武家社会の道理にしたがって規定を書いただけである。しかも、この式目は武家の人々のはからいにのみ使うだけで、京都の律令には一切関わりのないもので、それを否定するものではありません。」

かつて源頼朝は、京都の宮廷に対しては非常に従順な態度で、つとめて衝突を避けていました。義経追討の名目で1185年に全国に守護・地頭を置いたのは、実質的な日本支配でありながら、古代の律令をそのままにして公家を立てていました。そんな頼朝の意志を受け継いだ義時も、公家をたてつつ、武家社会の基盤を強化したのです。

義時は、他にも鎌倉の都市整備を進めるなどして経済の発展にもつとめ、執権政治の全盛時代をつくりました。

 

今回は、北条義時の3つの政策についてご紹介しましたが、やはりメインは御成敗式目でしょう。

この御成敗式目は、それまで公家の家来に過ぎなかった武士が、正式な身分として認められるようになり、ある種の人権のようなものを獲得したことで、必要となった成文法であるといえるでしょう。

そして、これ以降の日本は明らかに公家政権と武家政権の二重法制の国になりました。鎌倉時代とは、公家社会と武家社会が互い牽制しつつも、共存していた時代であるといえるでしょう。

 

そんな新勢力である武家社会が旧勢力の公家社会に対抗するようになり、支配者階級をめぐって権力争いを始めた。

その決戦となったのが、承久の乱

武家勢力が平安時代末期に力をつけ、った。この情勢で鎌倉時代となりました。

が起きた時代でした。

 

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献