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【金剛力士像】なぜ鎌倉時代に彫刻文化が花開いたのか【運慶・快慶】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【鎌倉文化2】なぜ鎌倉時代に彫刻文化が花開いたのか」というお話です。

 鎌倉時代は日本彫刻史における最盛期で、その時期に活躍した中心的仏師は運慶と快慶になります。

 運慶と快慶は平安中期の大仏師・定朝(じょうちょう)の流れを受け継いでいる。定朝というのは、日本独特な優美な和様という様式を確立した人物です。

平安時代中期に寄木造を編み出した仏師(彫刻家)の定朝の一派は、やがて慶派と呼ばれるようになり、運慶と快慶という天才彫刻家の登場によって、鎌倉時代には多くの優れた彫刻作品が生まれました。それは当時、新興勢力であった武士の台頭を背景に、力強さや写実性を重視した作風が好まれたからです。

 平安時代中期、末法思想が流行り始めると、貴族たちは現世での厄災や、来世で地獄に落ちることへの不安から、寺を建立したり、仏像を造ったり、お経を埋めたりしてせっせと功徳を積み、極楽往生を願いました。

 これにより、仏像彫刻の需要が高まったため、大仏師の定朝は、木のパーツを組み立てて仏像を造る分業制の寄木造を編み出し、仏像の大量生産を可能にしました。

 以来、全国で阿弥陀仏像が作られるようになり、定朝は法成寺や平等院鳳凰堂の造仏を手掛けた功績により、法橋・法眼という地位を賜り、それまで軽視されていた仏師の地位を大幅に高めました。

 そんな定朝の子・覚助(かくすけ)は父の技術を受け継ぎ、奈良に拠点を置いて活動するようになりました。やがて、この一派が康慶のときに「慶派」と呼ばれるようになりました。

 この康慶の実子が運慶であり、康慶の弟子が快慶です。今でこそ有名な慶派ですが、実は同じく定朝から分かれ、京都に拠点を置いていた「院派」と「円派」に主流を奪われ、慶派は、ずっと日陰の存在となってしました。

 

 そして時代は、保元の乱平治の乱源平合戦のような厳しい歴史の激動にさらされることになり、新興勢力である武士が時代を動かすほどの存在になっていきました。

 そんな中、源平合戦の勃発とともに、平氏の南都焼き討ちによって奈良の興福寺東大寺が灰に帰しました。興福寺の復興造仏には院派、円派、そして慶派が担当することになりました。しかし、金堂や講堂などの主要仏塔の造仏を担当したのは、院派と円派であり、地元であるはずの慶派は、南円堂や食堂(じきどう 現・国宝館)などの支院の造仏を担当することになりました。

 

 そんな慶派を引き上げたのが、源頼朝と重源でした。頼朝は、新寺院の造仏に慶派を採用しました。彼らの写実的で力強い作風が武家の棟梁・頼朝の気質に合致したのです。これは、激動の時代を迎えるなか、その結果として生じた現実を直視しようとする態度(リアリズム)への関心の現れといえるでしょう。

 

慶派はにわかに脚光をあびるようになりました。 

 これに拍車をかけたのが重源でした。重源は運慶や快慶と親しい間柄にあったことから、東大寺再建にあたり慶派に造仏を依頼したのです。そこで慶派の作品で最も有名は東大寺金剛力士像が誕生しました。

 力士像の憤激の表情と筋肉の躍動感は、慶派の作風を現した典型的な作品であり、運慶と快慶は、この高さ8メートルを超える2つの巨像を18人の部下とともにわずか69日で仕上げたと言われています。

 現在でも、この力士像は東大寺南大門をくぐる人の目を釘づけにする。

 

 ところで、運慶と快慶は同じ慶派でありながら、その手法は対象的でそれぞれ傑作を彫り上げています。

 運慶は、天平彫刻の写実性を導入して仏像を人間くさく、男性的に仕立てるのに対し、快慶は平安時代の和様に宋(中国)の手法を取り入れ、女性的で理知的な作品を多く手掛けています。

 運慶の代表作には興福寺の無著・世親像があり、快慶の代表作には東大寺僧形八幡神像や東大寺地蔵菩薩像が挙げられます。

 慶派の技術はその後、運慶の子供たちに受け継がれていきました。以下、それぞれの人物名と作品名を挙げていく。

 運慶の長男・湛慶(たんけい)の蓮華王院千手観音像、次男・康運(こううん)の興福寺金剛力士像、三男・康弁(こうべん)の興福寺天灯鬼像、四男・康勝(こうしょう)の六波羅蜜寺空也上人像である。

 

 運慶と快慶の登場によって、日本の彫刻界は活気づき、鎌倉時代に傑作が次々に生まれ、その黄金期を迎えました。

 しかし、室町時代に入ると造仏は定型化されて沈滞するようになり、これ以後明治時代まで、彫刻は見るべき作品が現れなくなってしまいました。

そういう意味でも、鎌倉時代は彫刻の黄金時代だったといえるでしょう。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

早わかり 日本史       河合敦=著 日本実業出版社

テーマ別だから理解が深まる 日本史  山岸良二=監修 朝日新聞出版