【修験道とは?】なぜ僧侶は霊山で修行するようになったのか
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【修験道とは?】なぜ僧侶は霊山で修行するようになったのか」というお話です。
古くから日本人は山を神聖な場所と考えてきました。とくに山容の美しい山には神が住む霊山として崇めていました。
したがって、そうした霊山は神の領域として安易に人が立ち入ることは厳しく禁じられてきました。もしこの禁を犯したならば、侵犯をした者はもちろん、その地域の人々にまで祟りが及ぶとされてきました。
しかし、こうした山岳信仰に変化が生じたのは奈良時代初期でした。仏教や中国の道教(神仙思想)などの知識を身につけた民間の修行僧が、修行場所として霊山を選ぶようになったのです。
日本は仏教を取り入れて以降、国家の庇護のもと、発展してきました。しかし、その弊害として仏僧が権力者や政治と強く結びつき、豪華絢爛な欲にまみれた生活をしていました。
平安時代に入ると、そんな奈良仏教とは一線を画し、やはり僧侶たるもの、贅沢な生活から離れ、人里離れた霊山で修行することで悟りの境地に至ることが理想とされました。これによって天台宗や真言密教などのような山岳信仰が誕生しました。
また、日本は国土の7割を山地にしていることから、そのような山岳修行が受け入れやすかったことも要因です。
こうして各宗派(特に天台宗や真言密教)の修行僧の中からも山岳信仰に加わる者が現れ、儀礼・教義・祈祷・呪法などが整い、修験道(しゅげんどう)という新たな宗派が誕生しました。
さて、ここまで「なぜ僧侶が山岳で修行するようになったのか」について見てきました。しかし、これは建前に過ぎず、本音の理由ではありませんでした。
では、本音の理由とはどのようなものだったのでしょうか。
役小角(えんのおずえ)は飛鳥時代の呪術者で、17歳のときに興福寺で呪法を学び、20代の頃には中臣鎌足の病気を呪術によって治癒したという伝説も残っています。役小角はその後、葛城山(かつらぎさん)で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々でも修行を行い、そして吉野の金峰山(きんぷさん)での修行中に蔵王権現(ざおうごんげん)を感得したそうです。蔵王権現とは釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三体が合体した存在であらゆるものを司る王を意味します。
そんな役小角が65歳のとき、言葉巧みに人々を惑わせたとする罪により、伊豆大島に流罪になりました。
しかし、皮肉なことに流罪になったことで役小角の知名度が高まり、彼が金峰山で蔵王権現を感得したことも修行僧のあいだに広がり、修行場所として霊山が選ばれるようになりました。
いつしか蔵王権現は修験道の本尊として、そして役小角は修験道の開祖とみなされるようになりました。
修験道の修行者は山中に寝起きすることから山伏と呼ばれましたが、各地の霊山で独自の修行をしていた山伏たちは、役小角を共通の開祖として仰ぐことによって、修験道という大きな宗派を形成するまでに至ったのです。
今回は、「なぜ僧侶が山岳で修行するようになったのか」を見ていきながら、修験道の誕生した経緯について紹介しました。修験道とは日本古来の神道的な山岳信仰に仏教(密教)の教理と修法が加わり、さらには道教や陰陽道のような呪法や占術も加わっています。修験道の世界観とはいわば、山岳信仰・密教・道教のハイブリットであるといえるでしょう。
以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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