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【承久の乱】幕府軍を勝利に導いた名演説とは?【北条政子】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【承久の乱幕府軍を勝利に導いた名演説とは?【北条政子】」というお話です。

 源頼朝の死後、政治的な混乱が続いていた鎌倉幕府に対し、京都の朝廷を動かしていたのが後白河上皇でした。鎌倉幕府は東国(東日本)を中心に支配体制を確立しましたが、この時点では、西国(西日本)中心においてはまだまだ朝廷の勢力が強かったのが現状でした。

 後鳥羽上皇は1202年から院政を行っており、前々から幕府の存在を苦々しく思っていました。そこで、上皇は朝廷の復権を目指して政治に力を入れ、倒幕のための軍事力の強化につとめました。

 一方、幕府に対しては、上皇は義理の兄弟の関係にあった3代将軍実朝と親しくなり、実朝を通して朝廷よりの方向に幕府を動かそうとしました。

実朝が朝廷と結びつきを強めていく中で、1212年1月、実朝の暗殺事件が起きたのでした。

 実朝の死により、源氏将軍家の血統が絶えてしまったため、北条政子とその子・義時は、後鳥羽上皇に願い出て皇子を将軍に迎えたいと申し出ました。しかし、上皇がこれを断ったため、幕府は頼朝の遠縁にあたる九条道兼の子である頼経を4代将軍として迎え入れることにしました。頼経はわずか2歳だったため、政子が後見人として代わりに政務を執りました。ここに鎌倉幕府の実権は北条氏に移ったのでした。政子は頼朝の死後、出家していたため、尼将軍と呼ばれました。

 こうして実朝の死後、幕府と朝廷の関係は悪化し、対立が目立つようになりました。

 

 ところで、幕府の実権は北条氏が握るようになったとはいえ、東国の武士たちの全てが北条氏に心服しているわけではなかったので、鎌倉幕府の権力基盤はにわかに動揺しました。

「いま突けば幕府は崩壊する」

 そう考えた後鳥羽上皇は1221年、北条泰時追討の院宣を全国に下しました。後鳥羽上皇がこれほど強きな姿勢をとれたのには理由がありました。後鳥羽上皇はその莫大な経済力を背景に、西国の武士や幕府に不満を持つ御家人たちを雇い、「北面の武士」や新設した「西面の武士」に組み入れることが出来たのです。

 さて、上皇が義時追討の院宣を下したということで、御家人たちが次々と鎌倉に集まってきました。しかし、幕府追討の院宣が下されている以上、義時が朝廷の敵とされているため、御家人たちは動揺を隠せずにいました。このままでは、義時は朝廷に謀反を働いた罪人となってしまいますし、鎌倉の御家人たちも朝廷に逆らった賊軍ということで、処罰されてしまいます。実際に、鎌倉の御家人や東国の武士の中には、上皇軍に寝返ろうとする者が続出していました。鎌倉は一時大混乱に陥りました。

 

 そんな鎌倉幕府の絶体絶命のピンチの時に起死回生を引き起こした人物がいました。尼将軍・北条政子です。頼朝の死後、政子は、御家人の尊敬を集めていました。そんな政子は、御家人や東国の武士たちに涙ながらの訴えをしました。

「みなの者、心を1つにして聞きなさい。これが最後の言葉です。今は亡き頼朝殿が朝廷の敵を倒して鎌倉幕府を開いて以来、官職にしても、土地にしても、みなの者が受けた恩は山より高く、海よりも深いものです。みながそれに報いたいという気持ちは、決して浅いはずがありません。名誉を重んじる者は朝廷方の逆臣を討ち取り、幕府を守りなさい。ただし、上皇方に味方したい者は、今はっきり申し出なさい。ただし、京都におもむく際には、私を斬り捨ててから向かいなさい」

それは自らの死をも覚悟した政子の魂の演説です。

 確かに、頼朝が鎌倉に幕府を開く以前は、武士というのは身分の保証もなく、公家の命令で散々タダ働きをさせられてきました。命懸けで守った土地の所有も認められず、それはもうひどい扱いを受けてきました。これが鎌倉幕府という武士のための政治組織が出来たことで、自分たちの土地の所有や身分の保証をしてもらうことができました。それは、紛れもなく頼朝のおかげでした。

 このかくのごとき政子の訴えに、東国の御家人たちは感じ入り、その結束を強めました。出陣の命令を受けて、ぞくぞくと鎌倉に集まってきた幕府の軍勢は、上皇方の軍が下ってくるのを待たずに、京都に攻め上りました。東海道東山道北陸道の3方向に分かれた幕府軍は19万騎にのぼったと伝えられています。

 

 一方、後鳥羽上皇院宣の効力で、すぐに幕府は崩壊するとたかをくくっていたため、幕府が大軍を率いて攻め寄せてくることを知った時は、慌てて軍を組織しました。しかし、時間的な余裕がなく、京都周辺の武士を寄せ集めただけで迎撃することになりました。

片や、結束を強めた幕府軍

片や、寄せ集めの京都周辺の上皇軍。

その勝敗は明白であり、幕府は鎌倉を発してから1か月足らずのうちに上皇軍を打ち破り、京都を占拠しました。

 

 捕らえられた上皇軍には厳しい処罰が下されました。

 まず、後鳥羽上皇隠岐国島根県隠岐諸島)に流され、その皇子の順徳天皇佐渡国新潟県佐渡島)へ、倒幕には直接関わらなかった土御門上皇土佐国高知県)に流されました。後鳥羽上皇の孫で4歳だった仲哀天皇は即位してからわずか70日間で退位させられ、後鳥羽上皇の兄の系統である後堀河天皇が位につきました。

 これ以降、皇室の皇位継承は幕府が管理するようになりました。かつて公家のボディガードでしかたなかった武家が、皇位継承を決めるようになったのです。これは太政大臣など位の高い公家が選ぶというそれまで常識が覆された瞬間でした。そういう意味でこの承久の乱は、歴史的に非常に大きな意味を持っていると言えます。

 

 続いて、幕府は朝廷側についた貴族や武士たちの所領を取り上げ、彼らを死罪とし、代わりに手柄のあった東国の御家人たちに与えました。そして、彼らをその土地の地頭として送り込みました。

 さらに、鎌倉幕府は朝廷のいる京都の見張り、かつ西国の御家人支配にあたらせる役所として六波羅探題を設置しました。六波羅とは、京都市東山区にある地名のことで、探題とは探偵を意味します。つまり、幕府は京都にスパイ組織を設置したのです。六波羅探題の長官には義時の子である泰時と、義時の弟である時房が任命されました。

なお、後鳥羽上皇は1239年に、同地(隠岐国)で死去しました。

 

 この承久の乱によって、それまで東日本を幕府が、西日本を朝廷が政治を動かすという二元政治のパワーバランスが崩れ、幕府の支配体制が全国規模に及ぶようになりました。鎌倉幕府の実権を握った北条氏は執権政治の基盤を固め、朝廷は幕府の意向にもとづきながら政治を行うようになりました。

 

 今回は、承久の乱とそれに伴って熱弁を展開した北条政子についてご紹介しました。幕府軍を勝利に導いたのが北条政子による魂の演説であったこと。しかも、それが女性からの涙の訴えであったということで、男性集団である武士達は本能的に感化されたのでしょう。

 それにしても、この承久の乱とは、幕府の力が朝廷に勝っていることを知らしめたことや、これ以降の皇位継承を幕府が管理するようになったという意味で、歴史的に非常に大きな意味を持っていると言えると思います。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

参考文献

日本の歴史1 旧石器~平安時代         ポプラ社

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著 宝島社文庫

早わかり 日本史   河合敦=著   日本実業出版社