【臨済宗】なぜ栄西は禅宗を広めることに成功したのか【栄西】
こんにちは。本宮 貴大です。
今回のテーマは「【臨済宗】なぜ栄西は禅宗を広めることに成功したのか【栄西】」というお話です。
平安時代中期頃までの仏教は、朝廷・貴族・仏僧などの一部の特権階級のひとたちが学び、信仰するものでした。
しかし、平安時代末期から鎌倉時代初期になると、庶民階級にも仏教が広く浸透するようになります。天変地異や飢饉が頻発し、保元の乱、平治の乱、源平の争乱、承久の乱などの戦乱が相次いだため、武士や庶民は現世の不安や苦しみから逃れるため、神仏にすがろうとした。
そんな時勢にあって、武士や庶民の要求に応え、積極的に彼らを救おうと6人の僧侶とその宗派がそれぞれ誕生しました。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗、そして一遍の時宗です。
これらの新しい宗派を鎌倉新仏教といいます。しかし、難しい教えや、厳しい戒律を守ったりすることは、庶民には困難です。このため、鎌倉新仏教の共通点は、1つの教えを選び(選択)、誰でも実践できる簡単な行を行い(易行)、それに専念せよ(専修)、という点にあります。
今回は、その中の禅宗系の教えである栄西の臨済宗についてご紹介します。禅宗とは、足を組んで精神を集中する坐禅の修行と通して、自力で悟りを開くことを目的とする宗派です。悟りは直感により得られるもので、文字で伝えることは出来ないとする不立文字、経典の教えとは別に、以心伝心で伝えられる真理があるとする教外別伝などを特徴とします。
栄西の臨済宗の教えは、当初、京都では受け入れられませんでした。そこで栄西は鎌倉に下って北条政子らの援助を得ました。この鎌倉幕府の後援のもと、栄西は再び京都に上り、臨済宗は飛躍的に発展させることに成功しました。
栄西は1141年に備中国(岡山県)の神社の家に生まれました。そのため、幼い頃から神道に親しんでいました。13歳になると、出家して僧侶となり、比叡山で天台宗を学びました。この頃、法然も比叡山で修行を積んでいました。栄西は27歳になると、伯耆国の大山まで教えを受けに行き、密教と修験道を学びました。
そして栄西は、天台宗の学びを深めるために宋に渡り、帰国後に天台密教の一派・葉上流の開祖となりました。
通例なら、一派の開祖になると、その教えの普及に専念するようになるため、違う分野への研究は控えられてしまいますが、栄西は違っていました。
1187年、46歳になった栄西は再び宋に渡り、今度は座禅による修行を重んじる禅宗の一派である臨済宗黄龍派を学びました。密教から禅というと差が大きいように思えますが、日本には、すでに奈良時代に禅が伝えられており、天台宗の開祖である最澄も唐で天台・密教・禅を学んでいるため、栄西は禅というものをしっかりと体得していました。
1191年、宋から帰国した栄西は、筑前(福岡県)に禅寺を建立し、九州で臨済宗の教えを広めました。この年が日本臨済宗の開宗年とされています。
その後、栄西は京都に上り、『興禅護国論』を著し、戒律を重視する禅には、鎮護国家の役割が備わっていることを強調しました。しかし、比叡山を中心とする旧仏教から栄西が新宗派を立ち上げたとして警戒され、朝廷も不審の目を向けたことで、栄西の禅宗は停止命令が下されてしまいました。
しかし、これは大きな誤解でした。最澄が学んだ禅は北宗禅の系統で、栄西が受け継いだ南宗禅とは系統が異なりました。そのため新宗派のように感じられたのです。
朝廷から禅宗の停止命令を受けた栄西は、今度は鎌倉幕府を頼って、鎌倉に下りました。鎌倉では2代将軍・源頼家とその母の北条政子の帰依を得ることが出来、寿福寺も開き、源頼朝一周忌の導師も務めました。武士が禅宗を好んだ理由としては、精神性を鍛える禅の修行が、命を賭けて戦う武士の気風に合っていたことがあげられます。
栄西の臨済宗の特徴は、坐禅の際に、公安を用いることと戒律を重視することでした。公安とは、坐禅を組む時に、師から与えられる問題のことで、例えば「あなたの前世は何であったか」といった質問です。修行者は、坐禅を通して、この問いに対する答えにたどり着いたとき、悟りの境地に至ることが出来るとされます。これを禅問答といいます。
また、臨済宗の厳しい戒律があることも特徴です。酒を飲んでいけない、肉を食べてはいけない、女と遊んではいけないなど様々です。
鎌倉仏教の特徴は、誰でも実践できる易行でした。しかし、臨済宗は禅問答や厳しい戒律をもつ臨済宗はあまり庶民向けではありませんでした。したがって、臨済宗は武士階級でも幕府をはじめ上級武士に好まれました。特権階級は庶民とは一線を画すことが出来ることを好むのです。
こうして1202年、栄西は鎌倉幕府の援助のもと、京都に建仁寺が建立され、そこの住職となりました。それまでの誤解も解け、比叡山がその膝元に大寺院が建立されることを認めたのです。
これは栄西が密教の高僧であり、栄西が天台・密教・禅を学ぶ寺院であれば、比叡山が反対する理由はなかったのです。
栄西の死後、臨済宗は鎌倉幕府の北条氏の保護を受け、武士のあいだに広まっていきました。幕府は南宋から来日した蘭渓(らんけい)や道隆(どうりゅう)、無学祖元ら多くの禅僧を招いて臨済宗を重んじ、建長寺や円覚寺などの大寺を建立していきました。
栄西の功績は、天台密教葉上流を創始と、日本臨済宗の創始だけではありません。栄西は、生涯に渡って様々な教えを学んでおり、神道・天台宗・密教・修験道・臨済宗をインプットした栄西は、その教えをアウトプットとして、律宗の俊芿(しゅんじょう)や、華厳宗の明恵(みょうえ)、さらに後に曹洞宗の開祖となる道元を指導したり、東大寺復興に努めた重源に菩薩戒を授けたりと、様々な功績を残しました。
また、栄西は禅の普及に努めるとともに、宋から持ち帰った茶を栽培し、『喫茶養生記』を著して茶を飲む習慣を日本に広めたことでも知られます。
今回は、栄西の生涯とその教えをご紹介しました。鎌倉幕府の後ろ盾があったとはいえ、栄西が禅宗を広めることが出来たのは、栄西が様々な教えの中継者として多くの功績を日本にもたらした名誉ある高僧だったことも大きな要因といえるでしょう。
以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
参考文献
眠れなくなるほど面白い 仏教 渋谷甲博=著 日本文芸社
聞くだけ 倫理 三平えり子=著 Gakken
早わかり 日本史 河合敦=著 日本実業出版社