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【臨済宗】なぜ禅宗は武士層に受け入れられたのか【無関普門】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【臨済宗】なぜ禅宗は武士層に受け入れられたのか【無関普門】」というお話です。

栄西によって日本に導入された臨済宗は、多くの武士層に受け入れられました。武士にとって禅宗とは、精神を鍛える手段なだけでなく、死霊や妖怪を鎮める霊力でもありました。合戦によって命のやり取りをする武士にとって死霊や怨霊は恐怖の対象であり、これは鎮めることは切実な問題だったのです。

 栄西によって日本に本格的に導入された禅宗は、中央・地方を問わず多くの武士層に受け入れられました。特に臨済宗は、鎌倉幕府室町幕府をはじめ高級武士層に受け入れられ、臨済禅の文化は王朝文化(貴族文化)に対抗するものとして日本に根づいていきました。

 鎌倉には後に鎌倉五山となる宋風建築の寺院が建てられ、宋・元から高名な禅僧を多く招き入れました。

 その中でも有名なのが、1253年に鎌倉幕府5代執権・北条時頼南宋蘭渓道隆を開山に迎えて鎌倉に創建した建長寺と、1282年に鎌倉幕府8代執権・北条時宗無学祖元を開山に迎えて鎌倉に創建した円覚寺などです。

 この教えは室町幕府にも受け継がれ、初代将軍・足利尊氏無窓疎石の勧めで天龍寺を建立し、南宋の官寺制度にならった五山十刹の制も作られ、3代将軍・足利義満の頃になると、僧録を置いて官寺を管理し、住職の任命は将軍が行いました。以後、臨済宗は政治に深く関与していきます。

 

 ところでなぜ武士は禅宗を好んだのでしょうか。その理由は、普段から肉体を鍛えている武士たちにとって、禅の修行は精神を鍛える手段として有効だったからです。強い精神性を教え説く禅宗の宗教観が、死を覚悟して合戦に臨まなくてはならない武士の気質に合致していたからでしょう。

 修行を通じて自己自身を深く見つめ、理屈をこねるのではなく、直感的に真理に至ろうとする禅の思想は、頼れるのは自分の肉体だけという武士の生き様に重なったのです。

 また、新興勢力である武士は、きらびやかで高尚な貴族文化にどこか引け目と反発を持っており、それらと強く結びついた天台宗真言宗よりも、新しく興った念仏宗禅宗に親近感を持ちやすかったことも要因のひとつでしょう。

 しかし、武士が禅宗を重用したのは、それだけではなかったようです。中世の人達は、禅僧には死霊や妖怪などの怪異を鎮める力があると信じていました。

 それは、建長寺が埋葬地であり、処刑場でもあった地獄谷に建立されていることや、円覚寺が蒙古襲来(文永・弘安の役)で亡くなった兵士達の霊を慰めるための寺院だったこと、さらには天龍寺後醍醐天皇の怨霊を鎮めるための建立されたことからも想像できます。

 また、京都の南禅寺に伝わっている伝説によれば、臨済宗の僧である無関普門密教僧でも退治出来なかった妖怪を追い払ってしまったといいます。

 1289年、退位した亀山天皇禅林寺殿の南禅院で出家しました。しかし、そこは死霊たちが巣くっており、怪奇現象が多発していることからとても修行どころではありませんでした。そこで頼ったのが無関普門でした。無関普門は東福寺で修行したのち宋にも留学しており、亀山法皇に請じられたときには東福寺第3代住職でした。

 南禅院に入った普門は、弟子20人ほどと南禅院に移り住み、修行生活を始めました。すると、怪奇現象はなくなり、死霊の気配もなくなったそうです。その後、普門は1291年に亀山天皇離宮を奉じて南禅寺を創建しました。

 このように武士にとって禅宗とは、精神を鍛える有効手段なだけでなく、合戦で殺めてしまった死霊や悪霊を鎮める力を持った宗教でもあったのです。

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

眠れなくなるほど面白い  仏教  渋谷甲博=著 日本文芸社

図説 日本史通覧   帝国書院