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【東北の歴史】大和朝廷を悩ませた東北の民とは?

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【東北の歴史】大和朝廷を悩ませた東北の民とは?」というお話です。

 大和朝廷を悩ませた東北の民。それは蝦夷と呼ばれています。蝦夷とは、ヤマト政権に服属しない北関東より北側(東北地方)に住んでいた人々のことを指します。古くからヤマト政権は東北地方を支配しようとしていました。「蝦夷」とは、朝廷に従わない人々をさげすんで呼んだ言葉です。

 

 ヤマト政権がはじめて東北の地に兵を送り込んだのは、西暦110年のことです。ヤマトタケルが東北遠征したことが『日本書紀』に記載されています。また、『宋書倭国伝には、倭王武雄略天皇)が東北遠征についての記述があります。 

 飛鳥時代になると、斉明天皇(第35代)阿倍比羅夫率いる水軍を秋田方面に派遣し、東北支配の拠点となる城柵(とりで)が築城され、兵を置きました。647年の渟足柵(ぬたりのき)の設置や648年の岩舟柵(いわふねのき)がそれにあたります。

 奈良時代になって、律令国家としての体制を完成させつつあった大和朝廷は国家としての支配領域を広げようと、東北地方の進出をさらに本格化させました。708年には日本海側に出羽柵(山形県)が設けられ、712年には国府(政庁)として出羽国が設置された。733年には秋田城が築城されると、ここを砦として日本海側の蝦夷征伐はひとまず完了しました。

 一方、太平洋側でも東北征伐が進みました。724年に多賀城宮城県)が築かれ、そこを拠点として鎮守府が置かれ、国府(政庁)として陸奥国が設置されました。以後、多賀城奈良時代を通じてヤマト朝廷の東北征伐の拠点となり、759年には桃生城が、767年には伊治城が築かれるなど徐々に蝦夷を北へと押し上げていきました。

 なお、朝廷の東北進出は、日本海側は海から、太平洋側は北上川に沿って行われていることに注目したい。

 しかし、奈良時代末期の780年、蝦夷の豪族で朝廷に従っていた伊治呰麻呂が朝廷から税をとられるなどの自由が奪われるのを嫌い、反乱を起こしたのち、多賀城を攻め落とされるという事態にまでなりました。

 これをきっかけに、蝦夷側の反乱も激しさを増し、以後20年以上におよび蝦夷は抵抗を続けました。

 こうした中、788(延暦9)年に、朝廷はついに大規模な蝦夷征伐に乗り出しました(第1回蝦夷征伐)。朝廷は「蝦夷」を「征伐」する武将たちの「総大将」として紀古佐美(きのこさみ)を征夷大将軍に任命し、大軍を東北に派遣しました。現在、武家の最高位として一般的に知られている征夷大将軍は、もともとは「蝦夷」を「征伐」するための最高司令官として朝廷が臨時に設置した役職だったのです。

 しかし、翌789(延暦8)年、紀古佐美率いる官軍は、蝦夷の首長・アテルイによって潰走させられました。これを受けた朝廷は、791年に第2回蝦夷征伐として大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大将軍に任命して再び大軍を東北に派遣しました。そして794年あたりから服属した蝦夷たちを関東以西の諸国に移住させていきました。しかし、服属した蝦夷たちは公民化がされず、俘囚として一般の公民とは異なる計帳で管理され、いわれなき差別も受けました。

 

 平安時代の最初の天皇である桓武天皇蝦夷征伐を続行しました。797年に、坂上田村麻呂征夷大将軍に任命し、アテルイの討伐を命じました。田村麻呂は渡来人の子孫と伝えられており、少年の頃から武芸に優れており、身長は175センチ、体重は120キログラムと当時としてはかなり筋肉質で大柄な男だったと言われています。目は鷹のように鋭く、怒れば100万の兵が恐れる一方で、笑えば幼子でもなつく人格者でもあったそうです。

 さて、蝦夷征伐を任された田村麻呂は4万の大軍を率いて東北へと出兵しました。801年、田村麻呂は多賀城を拠点として蝦夷征伐を開始し、ついに蝦夷の根拠地であった胆沢地方を攻め落とすことに成功しました。

 翌802年には胆沢城が築かれ、鎮守府多賀城からこの地に移し、翌803年には田村麻呂は、さらに北へと進出して志波城(岩手県盛岡市)を築きました。ここに大和朝廷の太平洋側の蝦夷支配は北上川中流域にまで及びました。

 こうした田村麻呂の蝦夷征伐にかなわないとみたアテルイは降伏しました。田村麻呂はいさぎよく降伏したアテルイを京都に護送し、命だけは助けるよう朝廷に願い出ましたが叶わず、アテルイは処刑されました。田村麻呂は大変悲しんだと言われています。

 

 以後、蝦夷征伐は805年に桓武天皇が一時中断するも、811年には再開され、文室綿麻呂征夷大将軍に任命し、ついに蝦夷は平定され、大和朝廷の支配領域は9世紀半ばまでには、東北地方北部(青森県あたり)にまで及ぶようになりました。

 しかし、朝廷に従った蝦夷は公民化はされず、俘囚として陸奥国出羽国国司に忠誠を誓い、特産物を貢ぐようになりました。しかし、国司の横暴が強まるにつれ、不満をもった俘囚は政府に抵抗するようになり、後の前九年合戦へとつながっていくのでした・・・・。

 今回は、東北の歴史として大和朝廷蝦夷征伐の歴史を見ていきました。朝廷側から蝦夷と呼ばれた人達の指導者だったアテルイは後世の書で「悪路王」として登場するようになり、江戸時代には極めて恐ろしい顔の像が製作さて、その像は現在、鹿島神宮に安置されています。

 

以上。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

図説 日本史通覧   帝国書院

日本の歴史1   旧石器~平安時代   ポプラ社