日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【鎌倉幕府】なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたのか【源頼朝】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【鎌倉幕府】なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたのか【源頼朝】」というお話です。 

 平氏を滅ぼした源頼朝は鎌倉に幕府を開きました。本格的な武士による政権の誕生です。1192年には征夷大将軍に任命され、武士達を従える最高の地位に就きました。

 武士たちは御家人という具体的な身分となり、将軍から自分達の領地を保護してもらう(御恩)代わりに、いざ戦いになれば、将軍の下に駆け付け、命懸けで働きました(奉公)。

 鎌倉幕府はこの御恩と奉公という将軍と御家人の強い関係で成り立っていました。

 

 ところで、なぜ頼朝は京都から遠く離れた鎌倉に幕府を開いたのでしょうか。今回はそれについて見ていきながら、「武士の都」としての鎌倉の発展をみていこうと思います。

鎌倉は源氏ゆかりの地であるとともに、周囲を山や海に囲まれた天然の城塞都市でした。

 源頼朝御家人たちを伴い鎌倉に入ったのは、挙兵から2カ月後の1180年10月のことでした。以後、幕府滅亡までの150年間、鎌倉は武家政権の都として発展していきます。

 頼朝が鎌倉を選んだ理由は、古くから源氏のゆかりの地だったためです。11世紀半ば、前九年合戦に勝利した源頼義が館を構えたのが始まりです。幕府が編纂した歴史書吾妻鏡』によると、当時の鎌倉は、猟師や農民しか住んでいない辺境の地だったようです。その後、都市開発がすすめられるとともに人口も増え、武士の都として成長していきました。頼朝の父・義朝も鎌倉を拠点に勢力を広げていきました。鎌倉の都市開発については、後で詳しく解説します。

 また、地形も最適でした。鎌倉は、南側は相模湾に面し、北側、東側、西側の三方は山に囲まれています。山のふもとには、地面が雨風に削られて出来た谷が多く、非常に複雑な地形となっています。つまり、鎌倉は攻めるに難く、守るに易い天然の要塞でした。

 しかし、山に囲まれているとなると、人や物資の行き来には不便です。そこでつくられたのが「切通(きりどおし)」です。山を人工的に切り開いて細い道をつくりました。そこは人がやっと通れるほどの道幅しかなく、戦時はここに城戸(木戸)を築き、盾を並べて防御施設としました。現在も朝比奈や名越、化粧坂などに往時の姿をとどめています。

 現在のようにショベルカーなどの重機がない時代に、山を切り開くのはさぞ大変だったと思いきや、鎌倉には「鎌倉石」というとよばれる凝灰岩の岩石の地層があります。この凝灰岩、比較的やわらかいので加工しやすく、手で掘ることも出来たようです。この性質を上手く活用したのです。

「武士の都」鎌倉は、政治はもちろん、経済や文化の中心地として都市開発されていきました。

 近年の発掘調査で、鎌倉は幹線道路が走る交通の要地で、大型の建物や寺社が立ち並ぶ都市的様相を呈していたことがわかっています。

 鎌倉を根拠地に決めた頼朝は、北方の大倉に新しく屋敷を構え、ここに幕府(大倉幕府)を置きました。頼朝は鎌倉を幕府の所在地にふさわしい都市にするため、さまざまな計画をたてました。

 そこで手本とされたのが、京都の町でした。内裏(天皇の住まい)に相当する中心には鶴ケ岡八幡宮を造営しました。この鶴ケ岡八幡宮では、将軍の就任式や流鏑馬などの行事が行われていました。

 また、平安京の中心を南北に走る朱雀大路にならって、鶴ケ岡八幡宮から南の相模湾由比ヶ浜)に向かってまっすぐに伸びる若宮大路を通し、この大路を軸に宅地や道路を造成していきました。若宮大路の中央の一段高い参道の部分には、頼朝が妻の政子の安産を願ってつくった段葛(だんかずら)があります。

 鎌倉の都市開発は、源氏将軍家が途絶えて、北条氏が実権を握った後も進められました。そして鎌倉が都市らしい姿をととのえるのは、3代執権・北条泰時の時代です。幕府は若宮大路の東側(宇都宮厨子幕府)に移されました。さらに10年後には、その北側(若宮大路幕府)に移りました。

 鎌倉には道路をはさんで家々が立ち並ぶようになり、商売をする店も現れました。先述の通り、鎌倉は切通しによって各地と結びついており、交通路も整えられると、主な出入り口には市も開かれるようになりました。

 鎌倉の沖には和架江島という人工の島まで築かれ、港がつくられました。これによって北九州と鎌倉を結ぶ水運が開け、宋(中国)から宋銭、書籍、美術品などが輸入されました。現在、和架江島の跡は干潮になると、石積みが海からすがたを見せるだけとなっています。

 谷が入りくんだ山沿いの地域には、寺院が建てられました。なかでも長谷にたてられた大仏(鎌倉大仏)には多くの信仰を集め、建長寺円覚寺などの大きな禅宗寺院も信仰の対象となりました。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社 

テーマ別だから理解が深まる 日本史    朝日新聞社

常識なのに!大人も知らない小学社会科のギモン   村瀬哲史=著 宝島社