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【蝦夷の歴史】北海道の独自の歴史とは?

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【蝦夷の歴史】北海道の独自の歴史とは?」というお話です。

 

北海道は、もともと蝦夷ヶ島と呼ばれ、古来よりアイヌ民族が住んでいた。

これまでアイヌ民族は、和人(倭人)と人種を異にするとされてきたが、実際のところ、どの人種に相当するのかは未だ確定されていません。近年では、和人と同一民族であったという説も出てきています。

 

本州が縄文時代を迎える頃、蝦夷地も同じように縄文文化が栄えていた。しかし、農耕は導入されず、ずっと狩猟採取の生活をしていた。つまり、蝦夷地には弥生文化流入せず、縄文文化が続いていました。これを続縄文文化と呼びます。

 

その後も、蝦夷地は大和政権の支配が行き届かず、本州が奈良・平安時代を迎える頃には、オホーツク文化の影響を強く受けるようになり、内面が擦文され光沢をもつ擦文土器を特徴とする擦文文化という独自の文化を開花させました。

アイヌの人々は、北海道産の鮭や昆布、鷲の羽、それに千島列島方面でとれるラッコの毛皮などを津軽地方にもたらし、本州産の米・鉄器・陶磁器などと交換していました。彼らは北方の樺太(サハリン)や中国大陸の沿海地方にも進出し、活発に交易・交流をしていました。

 

12世紀末に奥州藤原氏が滅亡し、鎌倉時代に入ると、東北地方のほとんどは北条氏の所領となりました。3代執権・北条泰時は安東氏という得宗の家臣を蝦夷地代官に任じ、蝦夷地の開拓を任せました。その目的は、彼らが行っている交易を管理し、その利益を収奪することで、いわば侵略ともいえるでしょう。

安藤(安東)氏は、津軽半島の十三湊(青森県五所川原市)を根拠地とし、アイヌとの交易で富を蓄えるようになりました。

アイヌの人々との交易でもたらされた品々は、十三湊と若狭湾敦賀福井県敦賀市)や小浜(福井県小浜市)をむすぶ日本海航路によって京都まで運ばれました。十三湊は日本海航路の中心となり、13世紀の後半以降、安藤氏は交易による富で「海の大名」としてさかえました。

 

しかし、鎌倉時代の末、津軽地方では住民の反乱が起こり、それに単独相続による安藤氏一族の家督争いも加わり、争いが広がっていきました。その争いは南北朝の内乱によって拡大し、14世紀の末には、戦乱から逃れて蝦夷ヶ島にわたる人々が増えてきました。

津軽海峡をわたって蝦夷地の南部に移り住んだ人々は和人とよばれ、各地に砦と住居を兼ねた館(たて)を築き、アイヌの人々と交易を始めました。

しかし、和人の進出は、次第にアイヌの人々の暮らしを圧迫するようになりました。その目的は、やはり彼らが行っている交易を管理し、その利益を収奪することにありました。

もちろんアイヌ民族も和人に黙って従ったわけではなく、室町時代中頃から、たびたび反乱を起こしては鎮圧されるということが繰り返された。中でも大きな反乱は1457年の大首長のコマシャインを中心とする大規模な戦争であり、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こりました。アイヌ側は道南十二館とよばれた和人の館を打ち破る勢いを見せたものの、コマシャイン父子が討たれて戦いは終わりました。

 

安土・桃山時代になると、安東氏の代官だった蠣崎(かきざき)氏が館の主たちをまとめて蝦夷が島で勢力を広げるようになり、交易の中心を十三湊から北海道南部に移し、豊臣秀吉徳川家康にも臣従して蝦夷ヶ島の支配圏を認められました。

 

江戸時代になると、蠣崎氏は松前氏と改名し、松前藩主として幕藩体制の一画に組み込まれ、アイヌ民族との交易によって藩を成り立たせました。

しかし、この松前藩からの過酷な収奪行為にアイヌ民族はやはり反乱を起こし、1669年に起きたシャクシャインの戦いは、アイヌ民族最大の反乱と呼ばれています。松前藩津軽藩弘前藩盛岡藩などの協力を得ることで、この反乱を鎮圧。以降、アイヌ民族は全面的な服従を強いられたのでした。

それでも江戸時代中期(寛政年間)にクナシリやメナシ地区でアイヌ民族が立ち上がり、クナシリの戦い・メナシの戦いを起こすも、いずれもアイヌ側の敗戦に終わっている。

その原因としては、アイヌ民族が民族同士の争いもあって、そのあたりをうまく利用されてしまったことや、松前藩側が本州からの武器や物資を調達できたことなどが挙げられます。こうして蝦夷地は江戸幕府の直轄地となりました。

 

そして19世紀中ごろ、江戸幕府が崩壊し、明治維新が起こりました。薩長を中心とする新政府軍と旧幕府軍の生き残りの戦いである戊辰戦争が各地で起こり、その最終決戦となったのが函館の五稜郭での戦いでした。1868(明治元)年、新選組の生き残りである土方歳三幕府陸軍の整備をしていた大鳥圭介らが函館の五稜郭を占拠。幕府海軍を率いた榎本武揚を総大将に仰ぎ、後に蝦夷地共和国という臨時政権を打ち立てた。翌1869年に新政府軍が上陸すると、蝦夷地政権は善戦虚しく敗れ去りました。

こうして幻に終わった蝦夷地共和国でしたが、大鳥圭介榎本武揚は生き残り、後に新政府に参加しています。

その後、蝦夷ヶ島は北海道と改名され、開拓使という役所が置かれ、屯田兵に任命された士族たちによって開拓が進められ、時には武器を持って先住民と戦うこともあった。

そして「少年よ、大志を抱け」で有名なクラークらのお雇い外国人の協力もあり、北海道の開拓が進められ、今日に至るのです。

 

こうして開拓された北海道でしたが、現在の北海道には日本政府や北海道庁の管理が行き届いていない領土があります。それが北方領土です。

これは我が国が抱える大きな領土問題のひとつと言えるでしょう。

歴史的・国際法的には、日本の領土でありながら、事実上はロシアの統治下に置かれています。

おそらく、今後ロシアが北方領土の返還に応じることはないでしょう。ロシアや中国のような国は、様々な国と接しているため、日本以外にも多くの領土問題を抱えています。そんな中で1ヶ国でも領土問題を解決してしまうと、他の全ての国との領土問題も解決しなければならないからです。

その結果、自国の国力低下を招く危険性も含まれているのです。