【関東の歴史】古来関東人の願いとは?
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【関東の歴史】古来関東人の願いとは?」というお話になります。
関東の歴史は、そのまま武家の歴史であると言える。その証拠に関東の地名にはかつて有力武将だった人達の苗字のものが多い。足利、千葉、宇都宮、鎌倉、三浦などがそれにあたります。
古来、関東地方は中央政権(大和政権)から搾取されるだけの一地方に過ぎませんでした。
そんな関東において935年に起きた平将門の乱は朝廷を震撼させた。これは関東人の不満が爆発した出来事とみてよいでしょう。
平将門とは、桓武天皇の血を引く誉れ高い平氏の武将ですが、この反乱は中央政府に一矢報いた事件でした。もともとは将門の一族内の争いだったものが、成り行きで、将門は新皇を名乗り、関東に模擬政府までつくっている。これに当時の関東人は熱狂しました。
結局、将門の乱は鎮圧されますが、これ以降、関東人は関西(朝廷)からの独立を強く願うようになる。この地域は官位や身分は高くなくても、地元民の活力を基盤に武士が多く土着するようになる。
そして将門の乱から250年後に関東人の願いが現実となりました。
源頼朝が1192年に鎌倉幕府を創設したのです。東国の武士は御家人と呼ばれ、鎌倉将軍と主従関係を結び、新恩給与と本領安堵を約束された。そう考えると、源平合戦とは関東地方の半独立戦争だったということも出来るでしょう。
1333(元弘3)年、鎌倉幕府の倒した足利尊氏は悩んだ末、幕府を京都(北朝)に開きくことにしました。ここで政治の中心は再び関西に移行してしまった。
しかし、尊氏は幕府の出先機関として鎌倉府という役所が置き、三男・基氏を初代長官(鎌倉公方)とし、補佐には上杉氏を関東執事(後の関東管領)として関東地方の支配にあたらせた。
公方とは将軍を意味するが、京の朝廷や室町幕府は、この地はずっと有力武士たちが治めるところとして警戒しており、事実上の鎌倉幕府を存続させたのです。鎌倉府は関東鉢8か国(武蔵、相模、常陸、上野、下野、上総、下総、安房)に甲斐と伊豆を加えた10か国、後には陸奥(奥州探題)・出羽(羽州探題)の2か国も加わり、極めて独立性の強い機関となりました。
関東人は、この鎌倉府をかつての鎌倉幕府に見立てて、室町幕府からの独立をはかろうとしました。その証拠に鎌倉公方は代を経るごとに将軍と対立していき、そして、それが頂点に達した事件が起こりました。
第4代鎌倉公方の足利持氏は、足利義教がくじ引きで6代将軍に就任したことに強い不満を持ちました。持氏は義教よりも自分の方が将軍にふさわしいと思っていたからです。
元来、鎌倉公方の子は、将軍の面前で元服し、その一字をもらい受けるのが習わしでした。しかし、持氏はこれを無視し、嫡子である義久を鎌倉の鶴岡八幡宮で元服させてしまいました。さらに、年号が正長から永享に代わっても、正長の年号をそのまま使い、幕府に刃向かう姿勢をはっきりと示しました。
関東管領の上杉憲実は、こうした持氏の行為を諫めるが、逆に持氏は憲実の討伐を計画する。身の危険を感じた憲実は自らの領国である上野国(群馬県)に帰ってしまいました。これを待っていたかのように持氏は憲実を攻めようとしました。
こうした持氏の挑発行為に対し、将軍・義教は憲実を救援する名目で関東に大軍を派遣し、関東・東北の武士たちに持氏を攻めるよう命じました。こうして鎌倉府は滅ぼされ、持氏も1439年に自害に追い込まれました。これを永享の乱といいます。
この永享の乱後、持氏に味方したために下野国(栃木県)の守護職を奪われた結城氏朝が持氏の子・成氏を担ぎあげて反乱を起こし(結城合戦)、義教はやはり上杉氏に援軍を送ってこれを鎮めました。
しかし、関東の混乱はこれだけでは収まりませんでした。
1454年、持氏の子・成氏は下総国古河(茨城県古河市)に逃れて古河公方を自称するようになりました。一方、室町幕府からも1457年に8代将軍・足利義政が弟の政知を関東に派遣しました。しかし、政知は鎌倉に入れず、伊豆国の堀越(静岡県伊豆の国市)を拠点とし、堀越公方を名乗るようになりました。
こうして関東には2つの公方が並立する状態となりました。それに加えて管領の上杉氏も内部分裂が起こり、扇谷上杉氏と山内上杉氏の2つに分裂したことで、関東は各派が入り乱れる混乱状態となりました。
これにつけ入ったのが、後北条氏でした。室町幕府の勢力が衰えてからは、下剋上の風潮に便乗して大名に成り上がる者が出てきました。
駿河国(静岡県中部・東部)の今川氏の家臣となっていた伊勢氏長(後の北条早雲)もその一人です。早雲は1493年に、堀越公方を滅ぼした後、伊豆国を奪い、韮山城を本拠に自立し、2代・北条氏綱のときには上杉両家を圧迫して、小田原城を奪い取り、1495年には相模国(神奈川県)、そして武蔵国(東京都)を獲得。そして3代・北条氏康は北関東にも進出し、関東管領の山内上杉氏の上杉憲政を越後国(新潟県)に追放。古河公方も婚姻政策によって吸収し、関東の大半を平定するに至りました。
こうして、いち早く戦国時代を迎えた関東では、下剋上によって成り上がった後北条氏によってまとまっていき、関東はますます半ば独立国のようになっていきました。なお、この後北条氏は小田原城を本拠としたため、小田原北条氏とも呼びます。
後北条氏は新参者だったため、関東支配に際しては大変気を使いました。苗字を伊勢から北条に改めたのも、かつての鎌倉幕府の北条氏を連想させるためでしたし、武田信玄や織田信長のように天下統一を目的としなかったのも、あくまで関東独立を願う関東人の感情に配慮してのことだったのでしょう。だからこそ、後北条氏は以後、5代100年間もの間、覇権を維持し得たのです。
しかし、この後北条氏の関東支配にピリオドを打ったのは、1590年に関西から来襲した豊臣秀吉でした。このとき、ほぼ全国の大名を配下に置いていた秀吉は諸大名に命じて支城を攻略、そして小田原城は取り囲まれ、後北条氏は秀吉の武力の前に屈したのでした。
この後、関東の地にやってきたのは徳川家康でした。秀吉の命令で慣れ親しんだ領国を奪われ、代わりに当時はまだ荒れ地や閑散とした農村ばかりだった関東の地を与えられたのでした。
家康は、かつて善政をしいていた小田原北条氏を良く慕っていた領民を支配するのに相当苦労したと伝えられています。その後も家康は朝鮮出兵にも参加せず、関東の地を整備していきました。
そして秀吉の死後、関ケ原の戦いを制した家康は、征夷大将軍となり、1603年に江戸に幕府を開きました。以後、江戸は日本の中心地として発展していき、最盛期には人口が100万を超える日本はおろか世界的な大都市となりました。
そんな江戸幕府も1867年の大政奉還によって滅亡し、江戸を火の海にしようとした西郷隆盛を説得したのが勝海舟や山岡鉄舟でした。こうして江戸城は無血開城となり、都市は戦果を免れました。
そのおかげもあって、政治の中心はまたも京に移るかと思いきや、そのまま江戸になりました。一時は大阪に遷都する案が有力でしたが、江戸は東京と改名され、明治天皇が行幸し、東京城(皇居)で政務を行うこととなりました。以後、京にあった政府機関も続々と東京に移り、なし崩し的に東京が首都となりました。
以上。
今回も、最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
参考文献
早わかり 日本史 河合敦=著 日本実業出版社
読むだけですっきりわかる 日本地理 後藤武士=著 宝島社
教科書よりやさしい 日本史 石川晶康=著 旺文社