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尊王攘夷運動に影響を与えた学問 水戸学とは【吉田松陰】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「尊王攘夷運動に影響を与えた学問 水戸学とは【吉田松陰】」というお話です。

 

 幕末になると、天皇を尊ぶ皇国意識と外国の動きを警戒する海防意識が芽生えます。それを背景に水戸学が台頭しました。水戸学とは水戸藩から生まれた学問・思想ですが、いかにして生まれたのでしょうか。

 ということで、今回は水戸藩の歴史を見ていきながら、水戸学について紹介いたします。

徳川家康によって水戸藩には尊王思想が信奉されました。2代藩主の徳川光圀は、『大日本史』の編纂を開始。幕末になると『大日本史』から水戸学が誕生するのでした。

 

 水戸藩の歴史は、江戸幕府が開かれる前の関ヶ原の戦いまで遡ります。

 水戸という地は元々、佐竹氏という大名が統治していました。そんな中、1600年の関ヶ原の戦いで東軍総大将・徳川家康から東軍として加勢するよう要求されますが、佐竹義宣(よしのぶ)は中々態度をはっきりさせずにいました。

 戦後、東軍が勝利したことで、佐竹氏は外様大名として久保田藩(秋田)に転封させられてしまいました。

 代わりに家康の五男・信吉は親藩として水戸藩に置かれます。しかし、病弱だった信吉は江戸幕府が開かれた1603年に病没してしまったため、新たに十一男・頼房が初代藩主として水戸に入ります。これが水戸藩のはじまりです。

 

  家康は江戸時代の士農工商の序列と徳川家の支配体制を強化するために、儒学の中の朱子学に注目します。そこで家康は林羅山朱子学を受容し、体系化することを命じました。こうして朱子学徳川将軍家公認の学問として確立します。

 一方で家康は、徳川御三家のうち、水戸藩にだけは尊王思想を信奉するよう命じます。これは将来的に江戸幕府が倒され、武家社会以前の天皇中心の国家に戻っても、徳川家の血筋が絶えないようにするためです。仮に天皇中心の国家になり、徳川家が全て処刑されても尊王思想が徹底されている水戸徳川家は生かしてもらえるのではという考えです。

 1628年、頼房の子として生まれたのは、「水戸黄門」でお馴染みの徳川光圀(みつくに)です。光圀も幼いころから幕府公認の学問である朱子学を学びます。

 

  そして、1851年、3代将軍・家光が死去。その後を継いで家綱が4代将軍就任し、武断政治が終わり、文治政治が始まります。争いのない平和な時代になったのです。

 この頃、幕府は学問の奨励を行い、各藩は学問に励むようになります。その目的は立身栄達というより、娯楽の意味合いの強い好学志向から来ていました。第一、この時代に武功による立身出世など不可能ですし。

 

 そんな中、水戸藩でも学問に励むきっかけとなる出来事がありました。頼房の世継ぎに確定した光圀は18歳の時、中国の歴史家・司馬遷が書いた歴史書史記』を読んで感銘を受けます。

「わしも『史記』にならぶ歴史書をつくりたい。超大作を作るのじゃ。」

 こうして光圀は超大作である『大日本史』の編纂を決意し、日本の古典の諸資料との収集と研究にあたります。以来、水戸藩は『大日本史』の編纂を中心に、古代~中世日本史を研究します。これには藩の予算の3分の1を投下しており、水戸藩は深刻な財政難に陥ります。この『大日本史』の編纂は明治時代まで続きます。

 

 同時に光圀は僧の契沖(1640~1701)に日本最古の和歌集・『万葉集』について研究するよう命じています。契沖は万葉集を分かりやすく説明した注釈書として『万葉代匠記』を書きます。これが後に「国学」の発展の礎となり、本居宣長(1730~1801)によって大成されるのでした。国学については、以下のリンクから。

 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

  

 日本史の研究を続ける光圀は、朱子学はいかにして日本に伝わったのかを調べます。朱子学鎌倉時代宋(中国)に渡った禅僧によって日本に伝えられたため、別名「宋学」とも呼ばれました。

 宋の時代は、異民族問題が絶えず、悪戦苦闘した漢民族王朝が「尊王斥覇」という思想を作ります。尊王斥覇とは、「仁徳をもって治めた国王を尊び、武力によって政権を握った覇者を排斥する」という考えで、異民族に対する戦争の大義名分とされました。

 この「尊王斥覇」の思想は朱子学の歴史として大日本史にも書かれることとなりました。しかし、これが後に尊王攘夷へと発展し、皮肉にも倒幕に繋がってしまうのでした・・・

幕末になると、全国的に攘夷思想が巻き起こります。水戸藩の9代藩主となった徳川斉昭は藤田藤湖という学者を起用。東湖は『大日本史』の中から尊王論を体系化。その思想は長州藩あの人物へと受け継がれていきます。やがて「尊王」と「攘夷」が結びつき、尊王攘夷運動が盛り上がります。幕末動乱期の始まりです。

 

 幕末になり、外国船が日本近海に現れるようになると、欧米列強から日本を守るという海防意識が全国的に芽生えます。その意識は、国学の「日本の神の国であり、外国は悪魔の国である」という思想と相まって、攘夷思想へと発展していきます。

 9代藩主に就任した徳川斉昭は、幕府の海防参与として外国からの侵略に対処するべきと主張を続けました。したがって、斉昭の水戸藩は、全国的に注目を集めます。

 江戸時代後期から幕末の動乱において、政局は斉昭を中心に動き始めます。斉昭は藤田東湖(ふじたとうこ)という学者を中枢に起用し、西洋列強に備え軍政改革に着手。

 それに呼応するように薩摩藩(鹿児島)の西郷隆盛や、越前藩(福井)の橋本佐内など後の時代の中核を担う人々がそれぞれ軍政改革に着手し、政治的発言力を持つようになります。

 1839年、斉昭は建白書(意見書)を幕府に提出。「西洋列強に侵略されていないのは、東アジアでは日本のみで、列強は必ず日本にやってくる。軍備増強を図るべきだ。」と持論を展開する。

 その後も、斉昭は建白書を提出するものの、幕府は無視し続けたのち、1844年、斉昭を水戸藩主から降ろした。斉昭は謹慎を命じられ、幕府に意見することが出来なくなりました。

 これを受けて、藤田東湖は『大日本史』の中に出てくる「尊王斥覇」という中国の思想を日本にも当てはめ、尊王天皇、覇者=幕府とし、「尊王思想」と「倒幕思想」を生みだしました。水戸学の完成です。

 

  さて、先程の宋(中国)の話で大義名分という言葉が出てきましたが、水戸学には、この大義名分論が唱えられています。

 大義名分とは何でしょうか。大義名分とは、人としてまた、家臣として国家や君主に対して守るべき道理や節義。または、ある行動のよりどころとなる正当な理由のことです。

 たとえば、いくら武士とはいえ、理由もなしに一方的に戦争をしかけるのは、世間の反感を買います。そこで、「国を守るため」という正義の理念を世間に示すことで出兵が可能になるのです。この正義の理念こそ‘大義名分‘です。大義とは、大きな正義を意味し、名分とは身分に応じて守るべき本分を意味します。

  さらに国体という観念も唱えられています。国体とは、その国の政治的基本原則のことですが、日本では特に「天皇を中心とした政治体制、社会秩序」のことを指しています。

 

 この水戸学を主体的にとらえ、体系化したのは長州藩吉田松陰でした。松陰は攘夷思想の中でも「西洋列強に対抗するには西洋の技術を学びとる必要がある」という建設的な攘夷思想の持ち主であり、ペリー再来航の際、海外へ密航を企てます。

 

 また、松陰は時代状況に対する幕府の対応に見切りをつけ、異議申し立ての精神を胸に宿しつつ「一君万民論」を唱えます。「一君万民論」とは、天下はただ一人の君主にのみ権限を認め、その他の臣下、人民は全て平等とする考えで、天皇を神格化している点が大きな特徴です。この思想は明治維新以降、松陰の弟子たちによって天皇を主権とした国家体制がつくられるのです。

 

 この思想は、当時としては画期的な思想で、長州藩主だけでなく、藩境を超えて全国的に広がりました。

  天皇を神格化する「尊王」と、外国を打ち払う「攘夷」が結びつき、尊王攘夷が誕生。これを大義名分とし、尊攘派の志士は京都の町で「天誅(てんちゅう)」とよばれるテロ行為を行うのでした・・・・・。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

明治維新という過ち         原田伊織=著 毎日ワンズ

早わかり幕末維新          外川淳=著  日本実業出版社