【政府分裂】なぜ西郷隆盛は征韓論を主張したのか
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【政府分裂】なぜ西郷隆盛は征韓論を主張したのか」というお話です。
幕末の動乱を経て、明治政府は徳川将軍家から政権を奪うことに成功しました。しかし、明治政府には中央集権国家を築くために多数の課題を抱えていました。東アジアの国々との外交もその1つです。
明治初期の外交課題は、江戸時代の4つの外交窓口の一元化です。江戸時代には「4つの窓口」と呼ばれる外交窓口がありました。オランダは長崎、朝鮮は対馬、琉球は薩摩、蝦夷地(北海道)は松前がそれぞれ外交を担当していました。今後は、これら全てを東京(中央)の政府が担当するのです。すなわち、地方分権の江戸時代から中央集権の明治時代への時代転換を図るのです。
ということで今回は、明治初期の外交問題に触れながら、なぜ西郷隆盛や板垣退助が征韓論を主張したのかを見ていきたいと思います。
清(中国)同様に欧米列強から不平等条約を結ばされた日本は、清とは対等な条約を結びます。一方、朝鮮には強引に開国させ、不平等な条約を突きつけようとする征韓論が生まれます。
明治維新後の1871(明治4)年、日本は清(中国)との間に日清修好条規を結びます。一応対等な条約ですが、お互いに領事裁判権を認めるという少し変わった条約です。
同年、右大臣・岩倉具視を団長とした大久保利通、木戸孝允、伊藤博文を中心とした岩倉使節団は、条約改正と海外視察を目的に1871(明治4)年、横浜港を出港。これはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、ロシア、イタリア、ドイツの各国を訪問するという地球をぐるりと一周する大規模な渡航です。帰国するのは1年10カ月後になります。
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さて、そんな使節団の留守を守ったのは参議の西郷隆盛(薩摩)、大隈重信(肥前)、板垣退助(土佐)です。
使節団は日本を出発する際、西郷隆盛を中心とする留守政府との間で「使節団が帰国するまでは極力、新しい政策は行わない」という取り決めをしていました。
ところが・・・・。
留守政府はそうした約束をあっさり破り、次々と大規模な制度改革を断行。
制度改革の面では四民平等を原則とした身分制度の改革、税制度を抜本的に改革する地租改正、義務教育を原則とした学制の公布、太陽暦の採用、徴兵令の制定など外遊組との約束とは完全に真逆のことをしました。
人事面においても、新たに土佐の後藤象二郎、肥前の江藤新平などを参議に任命。後藤と江藤は、西郷とは異なった政治観をもっていたものの、外遊組から政権を奪うために西郷に近づいたのでした。こうして薩摩1に対して土佐2、肥前2となるなど留守政府内における薩長勢力がにわかに後退したのでした。
さらに、外交面においても留守政府は朝鮮王国に開国要求のために外交を持ちかけることを計画します。日本もかつて、ペリー来航による開国要求を受けましたが、今度は日本が開国要求を朝鮮に突き付けるというのです。
日本はたびたび朝鮮政府に対し、外交を求めます。しかし、朝鮮王国はこの要求を拒絶します。
先述の通り、朝鮮との外交は江戸時代の鎖国期から既に成立しており、対馬藩が仲介に入り、朝鮮から通信使が来日。行列を連ねて、江戸に情報を届けるというものでした。ところが、19世紀初頭、11代将軍・徳川家斉の治世下で幕府財政は火の車になります。その影響で朝鮮からの通信使も廃絶してしまったのです。
朝鮮は日本を好奇な目で見ます。自国の伝統やアイデンティティを捨て、何やら西洋の真似ごとを始めた日本に対し、不信感を持ったのです。日本からすれば、欧米こそが進んだ文明であり、その文明を取り入れることが近代国家への近道だと判断したのですが、朝鮮からすれば、白人に自国を売った哀れな連中にしか映らなかったのです。
すると、日本政府からは、言う事を聞かない朝鮮を武力で懲らしめ、力ずくで開国させようとする意見が出ます。征韓論です。
具体的には、西郷隆盛が全権大使として朝鮮に赴き、相手政府に強引に開国を迫り、これに反対した場合、大量の軍隊を朝鮮半島に派遣するというもので、場合によっては激怒した朝鮮に西郷自身が殺されても良いとまで言います。
これを主張したのは、西郷をはじめとした板垣退助と、新たに参議となった後藤象二郎や江藤新平です。留守政府内で優勢の彼らは、外遊組から政権を奪おうとしたのです。
そんな中、外遊組がぞくぞくと帰国。早速、閣議が開かれます。
岩倉具視や大久保利通、木戸孝允は「今は他国と戦争をしている場合ではない。富国強兵や殖産興業など内治を優先するべきだ」と主張します。
彼らは西洋の文明に直接触れ、日本とのギャップに強い危機感を持ったのです。
閣議は大荒れとなり、征韓論派と内治優先派の対立が起こりました。
やがて、西郷の勢いに負けた太政大臣・三条実美は彼の朝鮮の出兵を許可してしまいます。これに怒った内治優先派の大久保は参議を辞任。続いて木戸も参議を辞任していまいます。
この事態に驚いた三条は西郷のところへ自ら出向き、「朝鮮への遣使を取り消してもよいか」と打診します。しかし、西郷は譲りません。
板ばさみにあった三条は精神的に参ってしまい、最高責任者にありながら、まともな政治運営を果たせず、とうとう自宅で療養をすることになりました。
三条に代わって政務を代行したのは、内治優先派の右大臣・岩倉具視でした。岩倉は、明治天皇に西郷の遣使派遣の中止を具申。明治天皇はこれを容認します。
こうして西郷の朝鮮遣使派遣は白紙になりました。政争に敗れた西郷、板垣、後藤、江藤の征韓論派は一斉に辞職。(下野)これを明治6年の政変といいます。明治政府は分裂してしまいました。
同時に、西郷を慕った鹿児島士族達も一斉に政府や軍を辞職。西郷とともに鹿児島に帰ってしまいました。
一方、板垣、後藤、江藤は国会開設を求めた民撰議院設立建白書を提出する準備を始めるのでした・・・。
なぜ西郷は征韓論を主張したのか。明治政府は、もともと尊王攘夷思想の持ち主です。彼らは古事記や日本書紀の伝説、さらに国学や水戸学に固執し、「日本は神の国であり、朝鮮よりも上位の存在であること」を信じ切っていたのです。
なぜ西郷や板垣は征韓論を主張したのでしょうか。
それを考えるにあたり、「征韓論」という言葉に注目してみましょう。「征」という字は「言う事を聞かない悪い奴を武力で懲らしめる」という意味があります。
さらに、当時は「朝鮮」という国名にも関わらず「韓」という字が使われています。正しくは「征韓」ではなく、「征朝」とするべきではないでしょうか。
この由来は神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐から来ています。
神功皇后の三韓征伐とは古事記や日本書記に出てくる伝説です。これらの記紀(きき)によると、「7世紀、皇后は軍を率いて海を渡り、古代の朝鮮半島に存在した高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)の三国(三韓)を平定した」と記されています。詳しくみてみましょう。
弥生時代、日本人は鉄を求めて朝鮮半島に渡っています。4世紀後半には百済と同盟関係を結び、日本人には大量の鉄を贈与された。その見返りとして当時の王権は大量の兵を朝鮮半島に派遣するようになります。
しかし、7世紀に入ると、百済との友好関係に異変が起きます。実は勢力を増した新羅が半島南部の加耶(かや)を支配下に置いたのです。その後、さらに勢力を増した新羅は百済・高句麗を征服。半島全てを支配下に置いたのです。これによって百済と日本の国交は廃絶してしまいます。しかし、当時の王権は半島の支配を庶民に正当化するために書物には朝鮮半島3国を平定したと書き加えたのです。
伝説といえば聞こえは良いですが、要するに捏造であり、日本は朝鮮(新羅)より上位にあったのだという歴史をでっちあげたのです。
徳川将軍家から政権を奪った明治政府ですが、彼らはもともと尊王攘夷思想の持ち主で、それを大義名分として幕末の動乱を繰り広げました。
彼らは古事記や日本書記とそれに基づく国学や水戸学の思想に毒されており、この伝承を信じ切っていたのです。
西南戦争の西郷や自由民権運動の板垣は、一見すると「英雄」や「庶民の味方」のように感じますが、実は朝鮮を見下し、侵略によって強引に開国させようとする過激な思想を持ち主でもあったのです。
「日本は神の国であり、朝鮮など簡単にねじ伏せることが出来る」
征韓論とは、聞くに耐えない稚拙な征服論だったのです。
(国学の起源や思想については以下のリンクから)
motomiyatakahiro.hatenablog.com
(水戸学の起源や思想については以下のリンクから)
motomiyatakahiro.hatenablog.com
もっとも、岩倉や大久保も、朝鮮と対等な関係を築こうなど微塵も思っていません。ただ、その時点における軍事行動は望ましくないと判断しただけのことです。
したがって、朝鮮を開国させるきっかけをつくろうとした政府は1875(明治8)年、軍艦を派遣し、朝鮮沿岸で測量を行うなど挑発行動をとります。まさに幕末に日本近海に現れた外国船と同じやり方です。案の定、日本軍艦が朝鮮の江華島(こうかとう)に近づいたとき、朝鮮から砲撃を受けます。日本政府はこれを口実にすぐさま反撃。全権大使・黒田清隆の交渉によって翌年、日朝修好条規を締結させることに成功します。これは朝鮮側に大変不平等な条約でした。
当時、日本も欧米諸国から押し付けられた不平等条約に大変苦しんでいました。国内でたまった不満や鬱憤(うっぷん)は弱い者いじめで晴らす。建前は朝鮮国の独立を支援することでしたが、本音は、先に西洋化した日本が他国に対して優越感を得るために無理やり開国させたのです。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
早わかり幕末維新 外川淳=著 日本実業出版社
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社
もういちど読む山川日本近代史 鳴海靖=著 山川出版社